本日の備忘録/More Than Human

 帰阪後ようやく今になって開封する段ボール箱に懐かしい文庫を見つけて、ひさしぶりにパラパラ。目が留まるのは、やはり以前と変わらないところ。

 右側のアパートの四階には、何人の人間が住んでいるのかはわからない。大きな部屋に寝台車のように二段ベッドがいくつも並び、カーテンでかろうじてプライバシーが確保されている。猫を飼っている男がいる。顔は見たことがない。男は窓の外を決して見ようとはしない。私がいつも目にするのは、彼の骨と筋になった痩せた背中だけだ。猫は時々窓のわずかなへりに出て、鴨寮街あぷりうがいを行き交う人たちを、水槽の中の金魚を見下ろすようにじっと見ている。しかし猫が外に出るのは五分以内と決まっている。その高度が猫にはあまり心地が良くないらしい。その五分間に飛行機が上を通ると、猫は必ず空を見上げる。私も見上げる。拾われてからというもの、恐らくこの部屋から一度も出たことのないその猫にとって、世界とは、はるか下に人間どもが行き交い、頭上を飛行機がびゅんびゅん飛ぶという構造になっている。

星野博美「唐楼の窓から見えるもの」『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫、p.152)

 こういう断片の魅力をどう言葉にすればいいのか、相変わらずよくわからない。「詩的」と書いてみたくなるけれど、たぶんそういう評言の実質は「よくわからないけれど、魅力的だ」ということかもしれない。とすると説明になっているのかなっていないのか、大いに怪しいってことになる。

 

 描写の魅力は書き込みの密度によるというふうに語られることがある。たしかにそう思えることも多い。けれど、この断片の魅力はそういうものではない。たとえば、主役の一人(一匹)と思しい「猫」の行動に関する記述はあっても、「猫」の姿そのものについての記述は一切ない。おかげで、読み終えても「猫」が三毛猫であるのか黒猫であるのか雉虎猫であるのか錆猫であるのかその他の猫であるのか、そんなことすらわからない。「顔は見たことがない」という飼い主の「男」でさえ、「骨と筋になった痩せた背中」の持ち主であることが語られているというのに。

 ところが、そうしたことが気にならない。気にならないのみならず、そうした記述の欠落が魅惑の根元になにほどか関わっているように思えなくもない。言葉の勢いだけで云ってしまえば、語られない何かがあることで魅力は生まれるとでもいうところかもしれないけれど、まさか、そう簡単な具合に話は出来上がってはいないよなぁ。欠落ばかり寄せ集めて、壮大な虚無のモニュメントを作れば、この上ないシロモノが出来上がる……なんてなことって、如何にもなさそうぢゃないですか。

 

おまけ

 ついでながら。『転がる香港~』には、香港で流行っている日本の大衆文化をめぐる話も登場している。そのうちのちょっと気になったヤツを以下に。

「Q太郎にはアメリカ帰りの友達がいたよね。何て名前だったかな」
「日本語では『ドロンパ』」
「広東語では何ていう名前だったかなあ……忘れちゃったよ。君はウルトラの誰が好き?」
「私は『超人七〈ウルトラセブン〉』」
「僕が好きなのは、吉田」
「吉田ってウルトラの誰?」
「吉田だよ、吉田。吉田って知らない? こっちでは吉田って名前だった」
 その吉田がウルトラの誰なのか、いまだに謎だ。

ibid. p.470

 吉田って何者なんだろう? ウルトラマンタロウがいるくらいなのだから、ウルトラマン吉田くらいいたっていい、のかどうか。

 

 ウルトラ(マン/セブン)を「超人」と訳してしまうとすれば、中国語、就中広東語の気分ではニーチェの「超人」、ウルトラマン的なキャラクタを思い浮かべることがあったりするのだろうか? んなわけ、あるはずないよな、と思いつつも、異文化の感覚って外からではホイホイ推し量り難いものがあるから、案外……という可能性には注意を要するかもなぁ。如何にもM78星雲出身者らしい顔付のウルトラマンツァラトゥストラがうっかりアツアツの小籠包か水餃子か何かを口にして「シュワッチ!」とか叫んでいるイメージが頭に浮かんでこなくもないような気もする。

 ずいぶん以前、オーストラリア版のウルトラマンが制作される折の現地での記者会見で「ウルトラマンのあの姿は、裸体なのか着衣なのか」という質問が飛び出したことがある。そんな疑問を抱いたことなど、まぁーったくなかったことに自分自身で驚いたのだった。異文化間の物の見方の隔たりを侮ってはいけないのだというような話をするときには、いつも思い出す話だな。いやまぁ、そのへん、本当に文化の違いによるものの捉え方の異なりなのだかどうか、わかったものぢゃないけれど\(^o^)/

 関係ないが、ニーチェの「超人」を、もし英訳するとすれば、「Superman」でも「Ultraman」でもなく、「More Than Human」のほうが似合っていると思いません? 語学的な適不適はさておき。って、さておいちゃいかんだろ、語学\(^o^)/

 

 第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。

 

 《欠落ばかり寄せ集めて……》で、ペニンの鳥(ピカソがモデルの登場人物)が地中に穴を掘って制作していた空虚によるクロニアマンタル(アポリネール自身)の像のことを思い起こしたというだけのことでございますがぁ\(^o^)/。しかし、新本が出回っていないのですかぁ。う~ん。

 

 "More Than Human"、実はスタージョン『人間以上』の原題だったりする。ハヤカワSF文庫から出ていたのが、今やマケプレものでしか見当たらない。ジュブナイルとしては、今でも悪くないと思うがなぁ。

 

本日のSongs/Saya Gray - 19 MASTERS

 Saya Gray、ファースト・アルバム。アルバム全体がYouTube、playlistで公開されている。仕上がり具合はいい感じ。

 個性的な声質はこれまで通り。アルバムになってみると、とくにアレンジの、うっかりすると聴き逃されてしまうのではないかと不安になるような繊細さを伴った多彩(?)にも耳を奪われる。楽器編成は小さいし音数も多いわけではない。作品もほとんどが短く*1、ちょっとした工夫といった程度では、それぞれの独自性を打ち出す編曲は難しい。このあたりだけでも、耳を傾ける値打ちはあるんぢゃないかな。

 

 Saya Grayは、これまでに2度ほど、ここで取り上げたことがある。毎度意味ある内容はないので、引いてあるヴィデオ音源を聴く以外には覗く価値がない。…(;´Д`)ウウッ…

 YouTubeで追いかけて来ただけだから、ファンを名乗るわけにはいかない。それでも、とうとう出たな、というような感慨をついつい持ってしまう。少なくとも、「SHALLOW (PPL SWIM IN SHALLOW WATER)」の衝撃みたいなものはたしかにあったわけで、あぁあのsongのヒトがソロでアルバムを出すに至ったのかぁ、と本作の出来不出来とは関係なく*2、孫の成長に目を細める爺ぃ的気分が湧いてきても仕方ありませんね\(^o^)/。

 

 上のエントリで取り上げた2作品は、このアルバム中に生き残ってはいない。とくに2曲目の「ZUCCHINI DREAMS (AUBERGINE MEMORIES)」などは、YouTubeのオフィシャルチャンネルではUnlisted扱いになっていて、Uploads from Saya Grayのリストから外されている*3。もっとも作品中の日本語による「ようこそ、私の世界へ」という言葉ばかりは、「1/19」に、決定的な形で残され、独立したトラックとしての地位を獲得しているのだけれど。「ズッキーニの夢(茄子の記憶)」が、「本日のSong/Saya Gray - ZUCCHINI DREAMS (AUBERGINE MEMORIES)」の脚註で触れたみたいに、仮に死者召喚の歌だったとすれば、このアルバム冒頭の言葉は、新たなアルバムへリスナーを招くための言葉としてのみあるのではないと受け止めることも出来るんぢゃないかという気もする*4

 そこいらへんは、歌詞が読める環境が出来てからゆっくり考えればいっか。

 

 これは個人的な聴取からの妄想みたいなものだし、おまけにその感想、歌詞の類の聴き取れた(つもりの)部分にのみ基づいているに過ぎないしろものであって、とてもではないが他人様ひとさまに共有してもらえなどしないと思うのだけれど……何となく連想がDavid Langの作品に飛んでいってしまう。David Langの『Death Speaks』*5だ。この作品が死の側からの招きであるのに対して、『19 MASTERS』は死者の迎え入れであるような、龍虎図みたいな組み合わせを思い浮かべてグッとキちゃったりする。やれやれ。

 比べるにしても、いささかタイプが異なり過ぎちまいますかね。

 

 そんなこんなで本アルバムは断然買いだと思うのだけれど、爺ぃとしては盤でなきゃ厭だという蟠る気分がモクモクと湧いてくるのがなぁ。う~ん。

 

Death Speaks

Death Speaks

Amazon

 歌唱は、My Brightest DiamondことShara Nova。で、こちらはちゃんと盤が出ているのですね。

 

*1: 全19トラック中、3分に足りないものが12もある。

*2: もちろん、出来はいいのだけれど。

*3: リストから外されてはいても、削除されたわけではなくて、段落冒頭のようにURLさえ知っていれば現在でも閲覧できる。

*4: こういう感じはアルバムの随所にあるように思う。とくにアルバムの随所に登場する日本語のセリフ部分には。もちろん英語の部分にだって、たとえば、多少面倒なラブ・ソングかなと思えるところに、Honestly we'll get too close, I'll go ghostのような言葉が現れると、これは恋愛を巡る単純な喩とは限らないんぢゃないかという気がしてくる。英語全体がちゃんと聴き取れていないから、この手の妄想に耽っちゃっているだけかもしれないけれど\(^o^)/。

*5: リンク先はYouTubeのplaylist。

本日の前転/A tornado in the city of Nihommatsu lifted a car into the air!!

 被害に遭われた方には踏んだり蹴ったりなのだろうけれど、傍観者的にはどうしても興味深い映像と見えてしまう。こういう被害に出遭う日本における確率の低さ対対策に求められるコストを考え合わせると、一般人が事前にできる備えは限られてくるだろう。せいぜいが適当な保険をかけておくくらい? それだって、場合によっては掛金が惜しく感じられることだってあるんぢゃないか。どのくらいかかるものか、調べたこともないのだけれど。

 とにかくご愁傷様だ。

……現場近くに住む運送業の30代男性は、竜巻のように渦巻く風が車をひっくり返す瞬間を目撃した。

 男性によると、アパート2階の自室にいた午後4時半ごろ、窓が揺れるほど風が強くなったためスマートフォンで外の様子を動画撮影し始めた。駐車場の自分のワゴン車が反時計回りに90度向きを変え、慌てていると、向かいのアパート前に止まる緑色の小型車が宙に浮き、車体の底を見せて横倒しになったという。

「福島・二本松で突風、車横倒しに 住民が目撃、撮影」(共同通信)

 冒頭のヴィデオを見てもリンク先記事の写真を見ても、どうも「横倒し」になったというよりも「でんぐり返し」、「前転」しちゃったというふうに見える。横転同様の結果になったから、「横倒し」という表現になったのだろう。だから、間違いだと云い募るわけにはいかない。とはいえ、結果に至るプロセスを目にした後ではわだかまっちゃうなぁ。

 それに、そのへんはプロセスに関する揚げ足取り的な小さな違いだと決まったものでもなくて、「横倒し」と「前転」では風の威力に結構な違いがあるように思える。前後に長く左右に短い車体のことを考えると、横倒しにすべくロールさせることは比較的易しいかもしれないが、前後に揺らしてロッキングさせるとなるとロールさせるよりは力が必要になりそうぢゃないか。瞬時に必要な力が大きいとすれば、この突風はより大きな災害につながる破壊力があるということだろう。風の瞬発力みたいなものは、「横倒し」より「前転」のほうが大きく、災害を生み出す潜在力もあるのだ(たぶん)。そのへん、物理の基礎の危うい素人考えが紛れ込んでいるかもしれないから、話の正確性は保証の限りではないが、大体のところそんなもんぢゃないか。

 

 共同通信からはYouTubeのチャンネルに「速報」のヴィデオも出ている。撮影者さんの、おそらくは実感の籠もった声も入っている。なるほど居合わせていれば自分だってそういう声を挙げちゃうよなぁ。ついでながらヴィデオも挙げておくか。

 「横倒し」であれ「前転」であれ、おそらくはtornado(竜巻)というほどのことはない旋風つむじかぜ程度のものなのだろうけれど*1、いずれにしてもこの手の突風類、ここ十数年で報道される折が増えたような気がする。実際に増えたのか報道される折が増えただけなのか、実はどちらも大して増えていないのだけれど、スマホの普及によって撮影されることが増え、報道でヴィデオが用いられるケースも増加し、結果として突風そのものが増えたかのような印象を持つに至ったのか、そこいらへん、本当のところどうなんだろう? そういうのを調べる、面倒臭くない方法ってあるかしらね? 面倒臭い方法しかないですかね? う~ん。

 

 もうべらぼうに長らく見ていないので、あらすじの記憶すら怪しいのだけれど、まずは加賀まりこ様、冨士眞奈美様、環 三千世様を拝んでおればよろしい映画かな。おっと、伊藤雄之助様も御降臨遊ばしておられたのであった。あぁ、それに、沢村貞子様、伴淳三郎ばんじゅん殿山泰司藤田まこと桂小金治川津祐介……爺婆世代は涙に咽ばずしては見られませんな。

 ググると評判よろしいとは限らないのだけれど、60年代前半もので今もDVDが生き延びているというあたり、キャスティングだけでは説明できないのでは?*2 そうでもないですかね。う~ん。

 

*1:cf. 塵旋風 - Wikipedia

*2: 純然たる映画というよりも舞台の喜劇を映画にしたような趣があるんぢゃないのかなぁ。そのへんがすんなりと受け入れられないヒトたちが出て来る原因ぢゃないかしら、ひょっとして。

本日の備忘録/How A.I. Is Changing Hollywood

Behind some of the coolest premium effects in Hollywood is the invisible aid of artificial intelligence. Machine learning is helping create previously unimaginable moments in media today. Let's examine how A.I. is changing Hollywood's creative workflow.

 18日の公開。先日の「本日の備忘録/Artificial Intelligence Helps Make Movies Speak Many Languages」のネタと同様の話題を扱ってなお詳しいというわけで、新たに加えるべきコメントも今のところないのだけれど、とりあえずここで取り上げるだけ取り上げておく。実をいえば、自動生成英語字幕もまだちゃんと読んでないしぃ\(^o^)/。

 いくらか注意しておいていいかと思われるのは、当たり前と思われる映像であっても、たとえばウォーホールの姿みたいに、CGではない実写によるものと見えるような映像であっても、実はAIを介して成立したものになっているというあたり。おまけに、本物と聞き分け難い音声がつくとなると……。しかも、こうした技術開発は現在も日々進んでいる。現実と見紛うばかりの非現実的映像の辿り着く先はまだまだ見えない。なにかと、うひ~、だな。

 

 世間的にはヴァーチャルリアリティを扱った本ということになるのかもしれないが、実際にはコンピュータ技術によるイメージの変貌全般が論じられているという感じ。映画も『ジュラシック・パーク』やら『フォレスト・ガンプ』やら、当時としては先端的なCGを駆使した作品が取り上げられていたんぢゃなかったかな。

 あんまり話題にならずじまいだったような気もするけれど、値段が安ければまだまだ売れてもバチは当たらなかったんぢゃないかしら。議論の枠組みが古典的で*2、まずわかりやすくて悪くない本だった。本の傷み具合が気にならないヒトには、今でもお薦めできるんぢゃないかと思う。定価ならさておき、現在のマケプレ価格なら間違いなくそう申し上げておいていい。

 

*1: いつの間にやらタイトルが「3 Ways VFX Artists Use A.I. In Hollywood | WIRED」に変更されている。あらま。というわけで、これは公開当初のタイトル。

*2: だから流行らんかったのかなぁ。