お行儀のよさからどう抜け出るか

石坂 啓「おもしろくないわけ」(ウソ発見誌、週刊金曜日)*1に曰く、

 学校で、マンガの描き方は教わらない。こう描くべきといったお約束が原則的にないから、みんな好き勝手で行儀が悪い。マンガを描いているのはマンガ好きで、描かずにいられないといった衝動がとりあえずはある人だ。その勢いにこちらは気圧される。

 これと対極にある分野で、正直に告白するとつまらないなァと思いながら審査をしているものに、実は作文コンクールがある。課題に合わせて応募された学生や子どもたちの作文に、がっかりさせられたことが少なくない。

 なぜつまらないのか。行儀がいいのである。どういうふうに書けば平均点がとれて無難なのか、大人にほめられてまとまりがよくなるのか、作文は学校で、書き方を教わっている。

 行かえも点もマルもそっちのけで書かずにいられない、アッチにもコッチにも心が飛んで文字を書くのがもどかしくて追いつかない、書いている自分が愉快でコーフンして言いたいことがいっぱい湧いて、取っ散らかってしょうがないけどとりあえずは原稿用紙に向かいました——という内容のものにはお目にかかれない。

 「よくできました」のハンコをもらうためにはそういうハミ出たものを削ぎ落として、体裁を整える必要があるからだ。

と。こうした発言は何もこれにかぎったわけではなく、いろんな方たちが似たり寄ったりの話をしている。けれど、こうした主張には、学校のはしくれで何がしかを教えてきた経験からするかぎり違和感を覚えずにはいられない。子どもたちが体裁のよさそうな文章を書くのは、学校で作文の書き方を教わっているから、というのは大いに疑わしいのではないだろうか。

 

たぶん学校のせいではない

 昨年は美術系予備校で、特定大学志望者のための小論文を教えていた。「小論文」といっても大学側がそう称しているだけで、実際には400字以内にまとめなきゃいけないし、課される主題も「わたしのこだわり」、「自然」、「都市」といったもので、いわゆる論文論文したのじゃぁないもの。だから、石坂女史のご覧になっていらした作文と、文章のタイプはそう隔たっていないのではないか、と思う。

 ただし、担当クラスの受講生たちは、作文をまじめに教わってきたという経験がほとんどない。ところが、答案を見ていると、彼らの答案はそれなりに「行儀がいい」のだ。《行かえも点もマルもそっちのけ》、《アッチにもコッチにも心が飛んで》、《取っ散らかってしょうがない》ってあたりは石坂女史のお眼鏡にかなうかもしれないが、内容の方は至って「行儀がよろしい」ってヤツなのだ。だからして、一学期の講義の最重要課題は「破綻を恐れるな」でありさえしたのだ。それでもなかなか彼らの行儀の良さを打ち破るのは大変な作業なのだった。

 だから、たぶん「行儀がいい」のは学校で作文を習ったせいではない。

 

大人だって似たようなもんだ

 どういうことなのか、調べたわけでも考え抜いたわけでもないけれど、仮説みたいなものは比較的簡単に思いつける。

  1. 価値観の社説化現象じゃないかしら仮説

    実は行儀のいい文章を書いてしまうのは子どもたちにかぎった話ではない。作文教育を受けてからずいぶん時間の経った、学校で教わった英語とか数学とかならばっちり忘れている大人が書く、たとえばブログの文章も、おおよそお行儀がいい。右左の単調な違いにそれなりの濃淡の異なりはあるにせよ、そんなものは誤差のようなもの。文章の書き方をどう教わるかという問題ではなくて、これは世の中に流通している通念にどっぷり浸ったところでしかものを見ていないってふうに考えたほうがいいのではないか。要するにものの見方が新聞の社説みたいになっちゃっているんじゃないのか。

  2. 書き言葉に馴染みがないんじゃないっすか仮説

    東京で暮らすようになってしばらくの間、共通語、いわゆる「標準語」で話すと、どうも本音が語りにくくって困ってしまったことがある。英会話なんかだってさぁ、そういうの、思い当たる節のある人っていないかしら。つまり、自分が馴染んでいない言葉を使うと、どうももっともらしい話しか語れない。口論においては守勢に回らざるを得なくなる。それと同じように書き言葉に慣れていないから、建前ばかりのお行儀の大変およろしい文章を書いてしまうんじゃないか。

  3. 読んでいる側に「行儀」から外れ出ようとしている部分が実は見えてないんでない?仮説

    これは仮説でもなんでもなくてある程度は事実かも。だって、学校の先生に添削された作文類を持ってくる子たちがいるんだけど、彼らが持参してくる添削済み答案を見てるとどうでもいいところばかりチーチーぱっぱ。目のつけどころに、オォっとぉってなのがあったってどうもそこには全然気づいてねーじゃん、ってのを見かける折ってしょっちゅーだもんね。もちろんこれは観察事例が少ないから一般化はできんかもね。でも、何にしても、目のつけどころはおもしろいのに、それを通念的な分析で潰しちゃっているって答案は多いんだよねぇ。たぶんそういうのが出てくるの、作文教育とか狭い範囲で考えてちゃいけないんだと思う。

 まぁどれも間違ってるかもしれないけれど、何にしても学校で作文を教わっているからだ、とは、教え子くんたちを見ているかぎり考えにくい。

 原因はさておき、では、どう書けばいくらかなりともお行儀がいいだけの作文から逃れられるのかということになる。簡単なコツだけここでは書いてみよう。大雑把に見て二つ。

 

細部に目を向ける

 一つは、経験の細部に目を向けよう、ってことだ。

 たとえば「わが心の風景」みたいな課題で書かなければならないとする。たいていの人は、《一昨年登った大雪山からの雄大な風景が忘れられない》みたいなことを書くわけだ。大雪山がマイアミビーチになっても話は変わらない。要は絵葉書の風景になってしまう。絵葉書とは行儀のよい風景に他ならない。行儀がいいから売り上げも観光客相手ならあがる。でも、だいたい絵葉書なんてどれも似たり寄ったりの素材、構図、色の按配になっている。

 見渡すばかりが風景ではない。たとえば、山登りしたってヘミングウェイの『キリマンジェロの雪』の書き出しみたいに、足元に目を向けてみたっていいじゃないか。都合よくライオンの死体(だったっけ?)が転がっているという具合にはいかないだろう。それでも、ブチマケられたゴミが散らばっているくらいのことはあるかもしれないし、街中では見かけない昆虫、鉱物が目につくことだってあるだろう。鉱物の模様に目を奪われたり、そこについうっかり貝類の化石を見つけちゃったりすることだってあったかもしれない。だったら、「雄大な風景」みたいなところから語られちゃいそうな「自然」じゃなくて、その細部から想起される造山運動の地球史的な時間とか斧足綱の生き物たちの辿った進化の歴史とかに思いを馳せたっていいはずなのだ。そっちのほうが最終的には遥かに「雄大な風景」が語れるかもしれない*2

 

課題を私物化する

 あと大事なもう一つは「課題の私物化」*3いずれにせよ、課題を自分の関心事に引き寄せて語る、自分が語りたいと常々考えていることとの関連を縁に書くということも重要。関心のあることでないとどうしたって通念に頼って書くことになってしまう。作文一般としてはこれは本来大事なことなのだ。

 お行儀のよい作文を抜け出す第一歩は、細部と自分のこだわりを大事にする、その2つになるんじゃないかと思う。で、これもたしかに学校では習わないのだなぁ、そういえば\(^o^)/。

 

自己プレゼンの文章術 (ちくま新書)

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*1:【復旧時註】現在(2018年12月31日)既にリンク切れ。う~。まぁ干支がもうすぐひと回りなんだからしょうがないかぁ。

*2: 念のために申し添えておくと、この問題は現実の風景よりも、所謂自分の原風景について書けって問題ぢゃないかと思う。だから「心の」風景という課題になっているんぢゃないか。でも、予備校の演習で課したときには、そういう観点から応えたものがまったくなかった。そのへんも気になるところなんだけれど、それはまた別の折に。

*3: 同じ言葉遣いが森村 稔『自己プレゼンの文章術』にも登場しているのだけれど、同じような立場にいれば、多少の違いはあっても同じようなことを考えるのも当然なのだろう。/本書は、学生さんの就職活動で求められる作文を話題の中心に据えている。そのぶん、「行儀のいい」文章指導ではあるのだけれど。でも、話題を絞り込んでていねいにわかりやすく書かれている点、文章指導に関心のある人は読むべきものになっていると思う。