評価基準に意識的になろう

 対象を評価する、いいとか悪いとか論じるとき、案外その評価基準に自覚的でないことって多くないだろうか。しかし当然のことながら、評価基準があやふやなままで優れた評価は行えない。そういうことをちょっとだけ考えてみよう。

 次の文章を読み、後の問いに答えよ。

 Aさんは、出来るだけ長い話をするコンテストに出場して、次のような話をした。

『あるところに、お爺さんとお婆さんがいました。お婆さんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れて来ました。お婆さんはこの桃を家に持って帰り、お爺さんと切ってみると、中から男の子が出てきました。二人は、この子に桃太郎と名づけました。次の日、川で洗濯をしていると、また桃が流れて来ました。家に持って帰り、切ってみると、また男の子が出てきましたので、今度は桃二郎と名づけました。そのまた次の日に川で洗濯をしていると、またまた桃が流れて来ました。この桃の中からも男の子が出てきたので、今度は桃三郎と名づけました。…………(以下、同様に続く)』

君がコンテストの審査員であるとして、Aさんの話の構成について、高く評価する点や批判する点などをあげ、その理由を明確に示して論評せよ。その際、論評する項目は自由に設定してよい。またAさん以外の出場者の話の内容に言及したい場合には、自由に想像し、利用してもよい。

 富山大学生物学科の、古い小論文問題。出題された年にはメディアにもユニークな問題ということで取り上げられたんだけれど……。あなたならどういう答案を書くかしら?

 予備校で取り組んでもらった際には、《話の長さを狙うあまり理屈ばっかりで話の面白さに欠けている。もっと文学的な巧みを凝らした作り方が必要だ》といった論旨の答案が多かったのだ。うーん、しかしこれは評価基準を正しく設定できていないんじゃないだろうか。いくら「論評する項目を自由に設定してよい」としても、これは「長い話をするコンテスト」なんだから。

 つまり、長い話のコンテストである以上、仮に文学的表現力みたいなものを論評項目の一つにするにしても、それが話を長くする工夫に対する評価以上に重視されるべきではないんじゃないのか、ということだ。

 たとえば、Aさんの話は「理屈ばっかり」だといえるだろうか? たしかに普段読んでいるかもしれない小説の類と比べれば理屈が表立っているかもしれない。だから小説やら詩やらと比べると理系的野暮を感じちゃうのかもね。でもそれはどんな理屈だろう?

 よっく考えると、Aさんの話って原理的には数学的帰納法で長い話の長さ加減を獲得してるわけでしょ*1。だから「Xさん夫婦は長男には一郎と名づけた、次に生まれた次男には二郎、三男には三郎……」でも理屈はいっしょ。もっといえば「1、2、3、4、5、6、……、n」なわけでしょ。そういう理屈をだれもが知ってそうな民話で包んで脚色してるんだから、文学的工夫が凝らされていると見るのが「長い話をするコンテスト」の審査員としての筋ではないだろうか? 「長い話」のコンテストであれば、評価基準はまず何よりも話の長さを中心に考えられなければならない。他の論評項目はすべて副次的なものと見ることを忘れてはならないはずだ。

 僕らは、ついつい日常的な感覚で何でも評価してしまおうとする。でも、対象の評価に当たってそれが正しい基準となるかどうか。たとえば、日常的な感覚と法的問題の考え方の間には少なからぬ隔たりがあったりする。問題の置かれているコンテクスト(文脈、状況)を確認しなければ筋の通らない評価を堂々と下してしまう危険があるわけだ。そういうところは、案外自覚しにくいところなのかもしれないけれど、意識的になっておく必要があるんじゃないかなぁ。

 

解答例

 なかなかおもしろい仕上がりだ。長い話のコンテストである以上、話は究極的には無限に自己増殖するシステムになっていることが望ましい。その点、Aさんの話は「桃太郎、桃二郎、桃三郎……桃n郎」という構成になっており、無限に続く話まであと一歩のところまで到達しているといっていいだろう。しかもそうした発想を剥き出しにせずに、「桃太郎」の話を踏まえている点で、広い意味での文学的脚色が見られるなど、高く評価できる。ただし、Aさんの話には致命的な欠点がある。それはお爺さんとお婆さんが有限の命しか持たないという点である。そのために、この話も原理的には有限の長さしか持つことができない。この点は是非とも改められねばなるまい。たとえば、私なら以下のようにAさんの話を書き改めるだろう。

「ある所に、お爺さんとお婆さんがいました。お婆さんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れて来ました。お婆さんはこの桃を家に持って帰り、お爺さんと切ってみると男の子が出てきました。二人は、この子に桃太郎と名づけました。やがて成長した桃太郎は、都に出てたいそう美しいお嫁さんをもらって故郷に帰ってきました。そのお嫁さんが、ある日川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れて来ました。家に持って帰り切ってみると、男の子が出てきましたので、今度は桃二郎と名づけました。やがて桃二郎も立派に成長し、都に出てたいそう美しいお嫁さんをもらって故郷に帰ってきました。そのお嫁さんが、ある日川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れてきました。家に持って帰り、切ってみると……(以下、同様に続く)」

 これなら、桃太郎の家系がこの話以外の事件の介入を受けない限り、決して終わることのない話が仕上がるだろう。やはり徹底的に長さを追究する姿勢を求めたいものである。

 頓知みたいな問題ではあるけれど、これって、言葉で生命のモデルを考えさせる問題と見えるところが興味深い。自己増殖するシステムを言葉で組み立ててみようっていう発想があったからこそ「生物学科」の問題足りえたんじゃないだろうか? 出来るだけ手間暇入らずに勝手に育ってゆく生き物。そういうのを言葉で作ってみるとどうなるだろう? それが問題の隠れた問いだったんじゃないかなぁ。そういう引いたところから眺めてみると、問題解決に要求されるコンテクストも少し見えやすくなるのかもしれない。

 

思いつき的おまけ

「昨日の午後、私が部屋で本を読んでいますと、彼がやって来て、一枚の紙片をテーブルの上に置いて出て行きました。その紙に書いてあったことを、私は一字一句そのままに書き写しています。いま読んでいらっしゃるこの文章、『昨日の午後、私が……』にはじまる、まさにこの文章がそれです。この文章をあなたはいまお読みになっているわけですが、この文章の奇妙な点はどこにあるのか、ひとつ考えてみて下さいませんか」

上の文章の奇妙さ(それがもしあるとすれば)を考えよ。

入沢康夫『詩の構造についての覚え書』思潮社

 

詩の構造についての覚え書―ぼくの「詩作品入門」

詩の構造についての覚え書―ぼくの「詩作品入門」

 

 

*1: まさか死ぬまで会場で上の話の続きを語り続けるわけぢゃぁないだろうから。