正確な曖昧/言葉の正確さはコンテクストとともに考えられるべきだ

 「人力検索はてな」に文章細部の訂正への疑問が登場している。受け応えを見ながら、アレコレ自分なりに考えたのだけれど、こういう細部だけ取り出して訂正の正しさを考えるのは、そもそもどうなんだろう。細かい訂正をさんざに受けた質問者の気持ちはものすごくわかるから、そいつにケチをつけようということじゃないし、細部の異なりが文意を大きく変えることだってあるのは承知しているんだけれど、でもなぁ、というわだかまりは残る。

 

 以下は、とあるウェブでの文章作法を扱った書籍に登場していた話*1

 黒い髪の綺麗な女の子にはマーブルオレンジで決まり!!

という例文の「黒い髪の綺麗な女の子」には、

  1. 綺麗な髪を持つ、黒い肌をした少女
  2. 黒い髪をした、綺麗な少女
  3. 綺麗な黒髪を持つ少女
  4. 綺麗な髪を持つ、黒い肌をした女の子供
  5. 黒い髪をした、綺麗な女の子供
  6. 綺麗な黒髪を持つ女の子供

の6通りの解釈ができてしまうから、曖昧でダメダメ表現だといった旨、その本には書いてある。うーん、でも文章の中での具体的な文の布置を考えないと、この手の指摘って文章作成の効率を下げるだけの瑣末主義と考えられないだろうか。「女の子」さえもが2通りに解釈できる曖昧な表現だと云うのであれば、「女の子供」という語句だって同じく2通りに解釈できる表現だ。「女の子供」ではなく「母親の子供」なり「大人の女に連れそわれた子供」なりにしなきゃぁなるまい。

 コンピュータに自然言語処理をさせようとでもいうのであれば考えなければならないあれこれも出てきそうだが、ヒトを相手とするのであれば、さてこの細かさは文章作成のコストを上げるばかりの代物ではないのか。ウェブ上の文章ってことが前提にあるのなら、モデルの「少女」だか「母親に連れられた子供」だかを写真掲載すれば、あるいはイラストの一枚も載せれば、それでかたづく話なんじゃないのか? そちらのほうが一文の細々した訂正なんぞよりいっそ気の利いた対処だろう。

 

 言葉は常にコンテクストにおいてある。「あっ!」という一言でさえ、登校途上の小学生が発したもので、いっしょにいた友人が算数の宿題の話をし始めた途端のセリフだったのだとすれば、これは十中八九、宿題を忘れたな、コイツめ、ってなことがわからないでもない。表現のみ取り出せば曖昧。しかし、傍から見ている他人にもピンとくる、言葉の遣り取りとしてはきわめてわかりやすい言葉、コミュニケーションの場においてはそれなりに正確な言葉といえるんじゃないか。つまり、「正確な曖昧」というものも、コンテクストさえしっかりしていればあるんじゃないか。

 

 そういうことを考えないまま、細部の「正確さ」ばかりを追い求めるというのは、ひどく抽象的な言葉の捉え方だろう。工学的なマニュアルなんかだとそうも云ってはいられない厳しい事情がありそうだが、そうではない文章にまでむやみに細部の「正確」を求めるとき、何かそういうコミュニケーションの繊細な機微が、かえって見落とされていはしないだろうかしら。

 

正確な曖昧 (1961年)

正確な曖昧 (1961年)

 
藤富保男詩集 (現代詩文庫)

藤富保男詩集 (現代詩文庫)

 

 

*1: 書籍全体としてはよくできていたので、ここでは具体的な紹介は控える。