正確であること、論理的であること、実証的であることが至上目的なわけぢゃぁない、よねぇ?

 わかりやすい文章って、考えてみるとすごくむずかしい。知ったかぶりのために難しげな言葉を濫用するのは論外に決まってる。でもね、ってことはやっぱりある。ちゃんと事実を指摘して、理路もしっかり通っているってことはもちろん大切に決まってる。でも、それだけぢゃぁ、ヒトを説き伏せられないってことはザラだ。さて、どうすればいいんだろう。どうしたって、状況を的確に捉え、目的にふさわしい言葉を考えるってあたりが欠かせないんだろうな。という、まとめてみると毒にも薬にもならん当たり前のお話なのだけれど。

 

わかりやすさのわかりにくさ

 文章を書くとき、たいていの場合、話を伝えたい相手がいる。その相手にどうしてほしくて文章を書くのか。その目的を冷静に考えるとき、どう書けばいいのかが見えてくる。あるいはなかなか見えては来ずに紛糾する。伝えたいことを論理的にわかりやすく書く。それだけで用が済んでしまうこともあるけれど、現実にはなかなかそううまくはいかない。そもそも、わかりやすく書くというのが大問題なんだもん。

 そういうことを考えさせてくれるのが、「専門家と素人のあいだに」(とらねこ日誌) *1だ。「福岡伸一の幻想を破壊してみた」(ならなしとり) とそれに対する批判をめぐって書かれたエントリ。乱暴を承知の上で思い切ってまとめてしまうと、わかりやすい表現には、しばしば誤解が生じるが、肝心の内容の伝達のためには少々の誤解に目をつぶることがあってもいいのではないかという話。専門家には前提としてある知識が、読み手の素人にはない。だから、そういう知識をちょいと脇において、伝えたい部分をとくに重視してわかりやすい文面を作り上げることも出てくる。どうしたって話の内容には不正確なところが割り込んでくる。そうなると他の専門知識の持ち主から批判を浴びることになる。でも、状況によっては、そういう批判を抑えることが重要なことだってあるんぢゃぁないか。そういう話だ。僕はどらねこさんの遠慮がちな主張にほとんど賛成だなぁ。

 「わかりやすい」というあり方自体、実は一般に思われているほどわかりやすいものではない。難解で複雑なものを平易で単純なものに置き換えればわかりやすくなる、なんて呑気な話では済まない面倒があるんだもん。不正確になるのを承知でいえば(^_^;、コンピュータプログラムのソースコードのことを考えるとわかりやすいかも。C言語か何かで書かれたソースコードはわかりにくい。だからもっと単純な機械語でそいつを表現してみたらどうか。何しろオンとオフ、0と1しかないのだから、これほど単純なことはない。ぢゃぁその機械語で書かれたコード全体がわかりやすいかといえば、もちろんそうは問屋が卸さない。そんなもん、わかりやすいかどうか以前にたいていの人類は読まないに決まってる。難解な概念をわかりやすい単純な言葉で正確に解いてみると、むやみに長い説明になっちゃうものだ。当然のことながら、正確さを保とうとすればどうしたって文章全体が長くなる。長くなると、なかなか読んでほしいヒトに読んでもらえないという、文章にとっての致命的な危険もついでに生じることになる。あちゃー\(^O^)/。というわけだ。

 手際よくサクっと読んでもらって、肝心の点だけは何とか伝える。そういうことを考えると、どうしてもアナロジー、要するに譬え話を使うことになる。新しい知識を身につけるとき、ヒトはすでに自分の生活経験で馴染んだ知識と結びつけて新知識を消化しようとする。だから、比較的よく知られている何かに、したい話の構造的な類似を見出して、適当な譬え話をこしらえる。もちろん、本来の話を別の話に置き換えての説明になるんだもん、そこに不正確が割り込むのは、むしろ当然ということになる。話の目的と、そこで要求される正確さのバランスを考えて、言葉のピントの絞り込みを考えるより仕方がない。だから、そういう場合の批判は、ただ不正確だというのではなくて、話の本来の目的に対して正確さが足りているかどうかを考えた上でなされなければならないってことだろう。

 

ヒトはあんまり理性的ぢゃないかも

 おまけに、ヒトは理性のみで物事を判断しない。感性、感情に流されちゃうことだってある。でも、最も面倒臭いのは、ヒトの、ほとんど自動化してしまった無意識のうちに働く判断だろう。そいつの力を考えないと、理を尽くしたメッセージがまったく逆効果になってしまうことだってある。そいつのせいで、論理的で実証的でついでに正確でわかりやすい言葉だけでは目的を達成できないことだって結構多いのだ。

 最近あちらこちらのブログで取りあげられている本に、ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器』(誠信書房)*2がある。たしかに、交渉やセールスを思うように展開したいってヒトたちには有益なものだから、評判になるのも当然なのだろう。けれど、読んでいるとあんまりに非理性的なヒトの判断と行動にいささか憂鬱になりもするのだ。まぁったく、どこがホモ・サピエンス、理性のヒトなんだよぉ。

 たとえば、第三章「コミットメントと一貫性」。筆者と同僚の論理学者は、超越瞑想プログラムの勧誘講座を覗きにゆく。友人の論理学者は、そこの指導者を聴衆の前で徹底的に論難論破し、指導者たちも議論の敗北を認めてしまう。

 しかし、私にとってもっと興味深かったのは他の聴衆に対する効果でした。質疑応答の後、二人の勧誘者に対してTMプログラムの参加費の頭金75ドル*3を支払おうとする人が数多くいたのです。彼らが支払おうとすると、勧誘者は互いに肘をつつきあったり、肩をすくめたり、ほくそ笑んだりして、当惑を示しました。彼らの議論はきまりが悪いくらいにはっきりと粉砕されてしまったように見えたのに、その後、どういうわけか嘲笑から不可解なほど多くの承諾を引き出し、会合は成功へと転じてしまったのです。相当奇妙なことに思えましたが、同僚の話の論理を理解できなかったために彼らがこういう反応をしたのだろうと私は考えました。しかし、実際はまったく逆であったことが判明しました。

(中 略)

 同僚の論理学者の指摘を理解していないために申し込みをしたに違いない、私はまだそう考えていましたので、彼の議論のいくつかの点について(引用者注:申し込みをした人たちに)質問を始めました。驚いたことに、彼らは同僚のコメントをとてもよく理解していました。実際のところ、完璧に理解していたのです。まさに同僚の議論の説得力こそが、彼らをその場で申し込む気にさせたのです。私的な団体のスポークスマンが、その経緯を最も的確に話してくれました。「僕は今夜はお金を払うつもりはなかったんだ。今、本当に文無しに近い状態だからね。だから、次の会合まで待つつもりだったんだ。だけど、君の友人が話し始めたとき、お金をすぐに払った方がいいと思った。そうしなければ、家に帰って彼の言ったことをまた考え始めてしまって、そうしたらもう決して*4申込まなくなるって思ったんだ」。

pp.106-8

 何だか変な話なのだけれど、切実に救いを求めているヒトは、むしろ理性的な言葉から逃れてでも救いにすがりつこうとするらしい。いったんすがりつこうと決めかけた一貫性を保とうとするんだそうな。「トンデモ」にハマリそうになっているヒトには、理を尽くした言葉がまったく無力だってこともあるのだ。こちら側に引き戻すためには、どんな言葉を用意すればいいのだろう?

 この本には、さらに『影響力の武器 実践編』なんていう続編がある。そこではさらにヒトの非理性的としかいいようのない話がてんこ盛りで登場する。たとえば……。

 社会的証明のネガティブな効果を調べるために(同時に、もっと効果的なメッセージを作れないか探るために)、われわれの研究者チームは化石の森国立公園から木が盗まれるのを防ぐための看板を2種類用意しました。一つはネガティブな社会的証明の看板で、「これまでに公園を訪れた多くの人が化石木を持ち出したため、化石の森の環境が変わってしまいました」という台詞に、木を持ち出そうとしている数人の来訪者の写真を組み合わせました。もう一方の看板には社会的証明を示す情報は入れず、ただ「公園から化石木を持ち出すことをやめてください。化石の森の環境を守るためです」という台詞に一人の来訪者が化石木を取ろうとしている写真を添え、さらにその人物の手の部分に赤い丸に斜めの斜線が引かれた「禁止」マーク*5を描きました。また、比較対象とするために、どちらの看板も設置しない対照群も設定しました。

 そうして来訪者に知られないように園内の遊歩道に印を付けた化石木のかけらを置き、さらに遊歩道ごとに入口に立てる看板を変えました(看板なしの入り口もあり)。この方法で、看板の違いが持ち出し行為にどう影響するかを調べることができました。

 その結果は、国立公園の管理者を化石にしてしまうぐらいショッキングなものでした。なんとネガティブな社会的証明メッセージの看板が立てられていた遊歩道は、どちらの看板も立てなかった対照群(盗まれた化石木は2.92パーセント)よりも、ほぼ3倍も盗まれた数が多かったのです(7.92パーセント)。これでは犯罪防止どころか犯罪助長対策です。それにひきかえ、単に化石木を持ち出さないよう訴えたメッセージは、対照群よりやや低い数字(1.67パーセント)になりました。

pp.13-4

「社会的証明」というのは、多数の人間が行動なり品物なりを選んでいることがはっきりしている(と思える)こと。つまり、上の話では、「化石木を盗んぢゃうヒトが多い」という看板は、本来化石木盗難防止のためのものであるはずなのだけれど、同時にそういうヒトが多いっていう「社会的証明」をもたらす情報になっちゃっているというのだ。多くのヒトがやっているという情報は、その善し悪しにかかわらずヒトの行動を左右してしまう。しかも、実はこの社会的証明に左右される判断というのは無自覚なものらしい。『実践編』では、ミルグラムの実験を取り上げて、

 社会心理学の研究には、人の行動に影響を与える社会的証明の威力を示すものがたくさんありますが、そのひとつに、スタンレー・ミルグラムのグループが行った実験があります。まず一人の研究助手がニューヨークの雑踏でふいに立ち止まり、60秒間空を眺め続けます。ほとんどの通行人は彼が何を見ているのか気にも留めず、除けて通っていきます。ところが、空を眺める助手の数を4人増やしたところ、一緒になって空を見上げる通行人の数が4倍にふくれあがったのです。

 このように、他人の行動が、社会的影響の強力な要素であることにもう疑いの余地はありません。しかし、ここで注目してもらいたいのは、研究の対象とされた人に、「あなたの行動は他人の行動に左右されますか」と尋ねると、皆、絶対にそんなことはないと言い張ることです。実験に携わっている社会心理学者の間ではすでに有名な事ですが、人は何が自分の行動に影響を与えているのかを自分ではほとんど認識できていません。……

p.3

という。

 ちょっと考えてみればわかることだけれど、「最近、××が増えている。困ったもんだぜぃ」って形のメッセージって、世の中に満ち満ちているっていってもいいくらい。さすがに最近多少は下火になったかもしれないけれど、「少年犯罪が増えている。近頃のガキどもには困ったもんだぜ」みたいなヤツ(まぁコイツは明らかな事実誤認なんだもんなぁ)。もちろん、そういうメッセージは、××がますます増えればいいと考えて発せられたわけではないだろう。でも、そういうメッセージが現実にはどんな影響を与えるのかを考えたとき、仮に「増えている」ことが事実だとしてもあんまり声高に喧伝するのは賢明を欠くということになるってことになるかも。むしろ、そういうメッセージの看板を下ろしてしまったほうが、いっそ社会のためなのかも。そういうアレって、いろいろあるでしょ? 変な社会的証明に加担しないように、ここでは例挙を控えておくけれどぉ。

 まぁ『影響力の武器』とその実践編にはその他あれこれ、この手の話が満載で、武器ってよりも「影響力の罠」といったほうがいいんぢゃないかって気がしてくる。うーん。

 

言葉を発する目的を考えなきゃね

 というわけで、ヒトを動かすためには、正確さ、論理性、実証性を確保しさえすればいいとは限らないってことになりはしないだろうか。何も不正確で非合理的で無根拠な話がすばらしいってことを云いたいわけぢゃぁない。ここまで読んでくださった方なら、それくらいのことはお分かりいただけると思う。

 文章を書く、ヒトと話をする、そういうとき、だれを相手にしているのか、何を目的にしているのか、どんな状況におかれているのか、そこいらへんに思いをめぐらしたうえで言葉の組み立てを考える必要がある。とにかく特定のこいつをとにかく頭に入れてほしいってときには、正確さをある程度犠牲にせざるを得ないことも出てくるかもしれない。あるいは、何とか特定の行動を促そう/止めようとするなら、理屈と実証だけでは済まないケースだってあるに違いない。そういうことをよくよく意識しておかないと、どこぞの文章講座の売り文句みたいな「わかりやすくて論理的な文章はだれでも書ける」といったお話も、それ自体何の役にも立たないってことになっちゃう、のかもしれない。よっく考えなきゃいけないことだな。ここいらへん。

 とまとめると、いささかならず当たり前にすぎる結論になっちゃうんだがぁ\(^O^)/。

 

影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか

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影響力の武器 実践編―「イエス!」を引き出す50の秘訣

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戦前の少年犯罪

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 少年犯罪って実は……ってあたり、これを読むとうんざりするほどよくわかる。

サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)

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サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)

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 「実験に携わっている社会心理学者の間ではすでに有名な事ですが、人は何が自分の行動に影響を与えているのかを自分ではほとんど認識できていません」ってなあたりを知るには、下條信輔のサブリミナルものも打ってつけ。

*1:【復旧時註】現在リンク切れ?

*2:【復旧時註】執筆時、読んでいたのは第二版だが、その後新版が出た。入手の便を考えて、リンク先はアマゾンの第三版のページになっている。以下の引用中のページ数や章は第二版のものであることに留意されたし。第三版ではかなり大掛かりな改訂があったようだが異同は未確認。

*3:原文縦書き漢数字。以下同様。

*4:強調、原文では傍点。以下同様。

*5:記号省略。