先日、東武伊勢崎線、枕橋近くのガード下で見かけたアーチの窓*1。
前を通るたびに、ガード下倉庫前で若いヒトたちが荷物の搬入だか搬出だかをしている。何だろうと思っていたら、藝大の学生さんたちによる「マイタワークラブ」の活動なのだそうな。何を目的に何を具体的になさっているのかは今も知らないのだけれど。マイタワークラブ (@MyTowerClub)のBioによると、
東京芸大GTSプロジェクト内で企画された、タワーをテーマに議論をするための場所(倶楽部マイタワー)を制作、運営していくクラブです。
とのこと。でもなぁ、タワーをテーマにした議論ってどんなのなんだろう?
と、それはさておき、この伊勢崎線の業平橋駅から浅草駅までの区間は関東大震災後作られたものだったはず。
23年9月1日。関東大震災がこの地を襲う。東武本社や「浅草」駅*2は全焼した。機関車6両や、貨車29両なども燃え、営業の再開には3週間かかった。
だが、翌24年に東武鉄道は本社を新築。31年には、隅田川に橋をかけ、同社の悲願だった本当の浅草への乗り入れを果たす。鉄筋コンクリート造りの東武ビルを完成させ、この駅を「浅草雷門駅」(今の浅草駅)と名付けた。もとの浅草駅はここで、今の「業平橋」へと改称した。
で、何が云いたいのかというと、以前、復興小学校の話題で触れた*3、アーチの窓って関東大震災後の流行りだったんぢゃないかという仮説――といってもちょっと建築に詳しい方なら常識になってるか、あるいはバカバカしい与太になってるのかがとっくの昔にわかってるようなことなんだろうけれど――の傍証が一つ増えたかな、ということ。
これは昨年暮れ、吉良を討ってから泉岳寺までの四十七士の足跡をたどる散歩の折にとった中央小学校の玄関。
防災に配慮した鉄筋コンクリート造りで、外観は当時流行の表現主義を採り入れ、丸い柱やアーチ形の窓など曲面を多用したデザインだ。現在も校舎として使用されている10校のうち、26年完成の明石小、29年完成の中央小を含む7校が、戦災を免れた中央区にある。
日本建築学会によると、特に明石小は復興小学校の中でも最初に設計されたとみられ、その後全国に建てられた「日本の鉄筋造り校舎の原型」であり、「重要文化財にふさわしい」という。
引用元の記事にある写真を見ると、明石小学校の玄関もアーチ状のものになっていることがわかる。《23年の関東大震災で被災した117校の小学校を、当時の東京市が再建した。こうした校舎は復興小学校と呼ばれている》というわけで、やはりこれも関東大震災の後の話。
これはもう云わずと知れた神谷バー。一度見たら忘れられない三連アーチの窓がこの建物の(素人目からすれば)最大の特徴なんぢゃないかと思う。実はこの建物は震災前の1921年にできたものらしいのだけれど*5(^_^;。
これは、今年浅草から鳥越神社あたりを歩いていたときに見かけた看板建築風の家屋。和風建築部分が見えないけれど、ちゃんと和風になってる。窓は、アーチぢゃなくてあくまでアーチ風というところだけれど。でも、作られた当時は案外本当のアーチだったのかもよ。
看板建築は、
江戸時代以来一般的だった商店(店舗兼住宅)は、軒を大きく前面に張り出した「出桁造」と呼ばれるものであり、立派な軒が商店の格を示していた。関東大震災後の復興では土地区画整理事業を実施し、街路を拡幅したため、各商店は敷地面積を減らさざるをえず、軒を出すのは不利であった(道路上に軒を出せば違法建築である)。また、耐火性を向上させるため、建物の外側を不燃性の材質(モルタル、銅板など)で覆う必要があった。加えて、庶民層の間にも洋風デザインへの志向が強くなってきていた。こうした条件が重なり、震災復興の過程で大量の看板建築が造られることになった。擬洋風建築が大衆化したもの、という見方もできる。
というわけで、これはたぶん関東大震災後の建物なんぢゃないかなぁ。
アーチ型の窓や玄関ってのは、大正時代の流行で、とくに関東大震災後は、時代風俗の先端をいく神谷バーみたいなのばかりぢゃなくて、中小の商店や学校などの一般的な建物にも用いられるような流行だったんぢゃないか、と。それが正しいんだか間違っているんだか、たいていのヒトにはどうでもいいことなんだろうけれど、散歩しながらあれこれ考えるのは愉しいもんだということで乞うご容赦。
池内 紀。散歩本としては珍しく写真がひとつも出て来ないところが気に入ってる。
建築探偵藤森照信。これは借りて読むのではなくて手元に欲しいのだけれどなぁ。うーん。僕が見かける看板建築風の建物は、こういうのに出てくるような立派なやつぢゃないんだけれど。