来るべき文章讀本みたいなものをどう考える?
建設現場近く、小さな会社の入り口に貼られた東京スカイツリーの写真に添えられた説明文。たぶん、大林組のホームページとかからのコピーなんぢゃないかと思う。
何も細かな日本語のミスをあげつらおうというのではない。だって、たぶんスカイツリー見物にやって来るヒトたちへの親切心からの文面なんだろうもの、そういうのはいささかならず野暮で品格を欠く振る舞いってことになる。おもしろいは、毎度のことながら少々日本語のミスがあったってちゃんと云わんとするところは通じるのだということ。
たとえば、そういう機微がなければ実は添削指導みたいなヤツのかなりの部分は不可能になるはずだ。本当は何を表現しようとしていたのかが「誤った」表現から読み取り可能であるからこそ「正しい」表現に「直す」こともできるはずだもんね。そこいらへんの言葉のロバストネスへの信頼なしには添削なんて成り立たない。
しばしば、文章読本の類では《文学的な表現はどうでもいい、まずは達意の文章を》ってなことが語られるわけだけれど、上のような意味において、文章読本的な規範から外れているこの説明文も「達意」の文章のうちに入れたってバチは当たらないんぢゃないだろうか。そういうことを考えるとき、実は文章読本が求める規範にはたいてい必ず「達意」以上のものが含まれていることに気づかないわけには行かない。そこに紛れ込むものはアレコレたくさんあるのだろうけれど、たぶん間違いなく「正しく美しい日本語」スノビズムみたいなものってあるんだろうなぁと思っちゃう。だからといって、そいつを指弾すべきだとかいうわけぢゃないけれど。
ただ、書くことが迫られるような状況を具体的に想起するとき、そんなものにこだわるよりもずっとプライオリティを置かなきゃいけないあれこれがあるんだよなぁ、みたいなことを考えはする。ことのついでに、「達意」の実際的な意味を明確にした文章讀本って、実はそんなにないんぢゃないかという気がしても来ちゃう。
参考文献、みたいな
連想クイズ脳の恐怖的アフィを以下に。
文章術といっても、文章そのものが多様な目的と状況の中で書かれるものである以上、こんなふうに目的別の文章術本ってのはもっと出てきていいもんかもね。
「正確であること、論理的であること、実証的であることが至上目的なわけぢゃぁない、よねぇ?」とか「ヒトの目ってやっぱ節穴だよなぁ/『論文査読者は特定の研究成果に好意的になりがち?』」なんかのことを考えていると*1、今必要な文章読本の姿を改めて考え込んじゃうんだよなぁ。
今の文章術類の主流は、「論理的でわかり易い文章を書くべし」というヤツ。それはそれで非常に重要なことであるには違いないのだ。読み書きともに、まず論理的な組み立てが理解できたところにあってほしいとは僕だって思う。でも、そのことによって書く目的が達成されるとは限らないし、論理的なところの読解だけ教え込まれていても、レトリックや心理学的なあれこれの影響に無自覚なまんまの読みでは書き手の戦略に欺かれるもとにもなりかねない。あるいは、svslabさんのEMU*2のように論理的なだけではない読解作法からこそ優れたクリティカルな読みが成立するという近年の研究を反映した読解システムだって存在している。
さらにあるいは、今僕たちが書く文章って、たとえばウェブ上のそれのように、文面だけではなくて書面のレイアウトやデザイン、図表の選択その他あれこれも、しばしば独力でコントロールしなければならないことも出て来ている。そのへん、「コンピュータ時代の文章作法」でも少しだけ触れたことがある。
そういうあれこれの知見を総合的に扱えるようでないと、現在に肉薄できる文章読本ってのは成立しないんだろうなぁ。で、そういうものを本気で書き上げようとすると、たぶん新書サイズのヴォリュームでは間に合わないんだろうなぁ。そうなると売れないだろうなぁ。とかなんとか、考えてもさしあたり仕方のないことを考え込んでしまうのでありました。
こういう言葉を眺めるチャンスって、日本語の中ではだんだん減っているのかしら、と感じる。「わかりやすさ」の圧政の中で、詩的なものの生き残りの術はどれくらいあるのだろうかしら。まぁ、読まれようが読まれまいが、あるいは書かれようが書かれまいが、だれかが書かれるべき言葉を書き読まれるべき言葉を読むという、人類の営みとしての詩は途絶えることはないのは間違いのないところなんだけれど。けれど、けれど、読んでいておかしくないヒトが読める環境がないというのは、さて、と思わないでもないのだよなぁ。うーん。
今どき、こいつを推薦したりすると、このオヤジ、頭のネジが飛んだんぢゃネ? みたいに思われる鴨、というか現に飛んでいない保証もないんだけれど(^_^;、しかしながら、世のモダンな文章読本類が「道場破り」(斎藤美奈子)の対象としてまず筆頭にあげているこの文章読本は、そうした有象無象のコモノが批判するよりはるかに広い視野からの正しく美しい日本語イデオロギー批判を隠し持っているようなところがあるのだ、と僕なんかは思っている。そこいらへん、きちんと言葉にしておくべきなんだろうけれど、まぁ面倒臭いし、僕のようなパープリンには荷が重いところがないわけでもない、というか、有り余るほどにあるというのが率直なところ。頭の冴えたヒトがそこいらへんの面倒をホイホイこなしてくれるといいんだけれどなぁ。うーん。
谷崎大先生の著書の後に上げるのは、ちょっと気が引けないでもないのだけれど、今手に入る日本語で書かれた文章読本の中では最も有益なものの一冊。そいつが翻訳モノであるというのはアレなんだけれど、多くの文章読本類が見逃しているのか、面倒だから知らんぷりをきめこんでいるのだか、等閑視している書くべき内容の育て方の基本が語られているところが重要。
そういうとこいらへんでは、次のも有益だと思う。
ここに書かれた「プロ」の水準を、僕たち素人がそうホイホイ真似できるかというと、まぁそうは問屋が卸さないところなんだろうけれど、でもどういうところを理想として頭に置いておくべきなのかはよくわかる。そういうのがわかっているかどうかってのは、素人にとってだって大切なことだろう。
*1:【復旧時註】後者「ヒトの目って……」は復旧に当って付け加えた。
*2:【復旧時註】cf. 後にまとめられた論文として、「マーキング・感情タグの付与を活用したライティング活動における問題構築的読解」がある。