平均のイデア

20110306031008

 夜中、 浅草寺二天門 の増長天。照明が消えた後、街の光だけで撮るのは安物コンデジには荷が重い。増長天の右腕は完全に消えてしまった。

 薄暗がりの増長天はそれなりに怖いもの。往時の夜にはさぞかし迫力のあるものとして、ヒトビトに受けとめられていたのだろうな。今の世となれば、恐怖に関する造形、それを受けとめる感覚もCGによるホラー映画みたいなものや、実際の戦争の惨禍によってもたらされたあれやこれやの映像によって研ぎ澄まされてしまった。そういうスれた心には、昼間の増長天さま、いくらか気張りすぎの滑稽だと見えないでもない。しかし、それでもそこは四天王のお一人、闇の中ともなれば枯れすすきなんぞには負けないくらいの恐怖感を今でも放ち続けている。

 増長天のご尊顔の造形を、今の時代になってもそれなりに恐ろしいものと受けとめる感覚ってどこからやって来るのだろう?

 

 獣たちの、声や動作から彼らがどのような感情みたいなものを抱いているか、おおよその見当はついてしまう。怒っているのか怯んでいるのか、あるいはこちらに腹を見せて親愛の情だか恭順の意だかを示して見せているのか、それらの言葉が正確でないのは承知だけれど、そういう感情の言葉で表現できそうな何がしかがあるというのがわかる。もちろん、経験の蓄積ということだってあるのかもしれない。幼児が飼い犬の示す「親愛の情」みたいなものを理解できずに怯んで泣き出すようなことだってある。けれど、あまり獣に接したことのない者でも、ほどほどの歳頃ともなれば、初めて接する獣の「表情」みたいなものをさほどの労なく察することができる。そういうところを素人なりに考えると、ヒトの表情や声の抑揚にも獣と共通するような特徴があるからではないかと思えてくる。

 もちろん、これはたかだか猫さまや犬、せいぜいが動物園で眺められる獣、哺乳類限定の話であって、野生の獣はどうなのかは知らないし、同じ哺乳類だからといってもクジラやカモノハシの類のこととなると、ちょっとわからないような気もする。また、街中で見かけるにしても雀や鴉、カエルやヤモリとなると、もうそういう感情もどきのようなものは察すべくもない。喰い物屋の水槽にいる、フグだとかイカになると完全にお手上げだ。いや、鴉であれば稀に仕草や鳴き声の変化に、よもや、ということがないでもない。しかし、ねこ様や犬のように、それをそれとして確認する手立てはなさそうだ。

 で、僕としては上の増長天には、そういう哺乳類的な「怒り」の共通項が括り出されたようなところがあるのだろうと考えてみたいわけだ。どうも見ているとヒトの怒りの表情をデフォルメしたにとどまらない形があるように思える。完全にそうなのかどうかは怪しいところが残るのだけれど、経験から醸成された恐怖ではなく、どこかしら本能に比較的近いところにある怖さを感じているような気がする。そういうとこいら、過去からヒトに対峙してきた恐怖の形があるんぢゃないか。

 

幕末・明治美人帖 (新人物文庫)
ポーラ研究所
新人物往来社
売り上げランキング: 575,480

 そういうことに思いをめぐらせるとき、よく取り沙汰され、またその実験において合成された写真に一定の説得力を感じさせる考え方に、Judith LangloisとLori Roggmanによる、ヒトが属する特定集団の女性、その平均的な造作の顔が美人と判断されるという説がある*1。その後、いろいろ批判も出なかったわけではないが、決定的と云えるほどのものはまだ耳目にしたことがない。そのあたりにはこちらの不勉強もあるから確言はできないものの、それにしてもこの説はいろいろな意味で興味深い。

 まず、一見美人の判断は多様であるように見え、一方で大多数が美人だと判断する美人像も存在するという二面性を説明できるように見えることがある。集団といっても私たちの社会のように構成要員が非常に多い場合、ヒトが目にする女性の広がりは多様である。その多様に応じてまた平均のありようも多様になるだろう。一方で、マス・メディアの発達普及によってヒトが目にする女性の肖像には、歴史上ないほどの共通性が確認される。そのような条件下では、万が一ヒトの平均顔判定が、主観などという夾雑物を差し挟む余地のない、まったくの同一のメカニズムによっていたとしても、多くのヒトビトに美人と呼ばれる少数の女性がいる一方で、万人が完全に同一の美人判定を行うこともないという矛盾が説明できてしまうのではないか。

 あるいは、平均はしばしば凡庸の別称であるかのように語られる傾向があるが、実のところ完全な平均などというものは観念の中の抽象にしかなく、現実にはその類似のあれこれが存在するばかりであるという事実を、私たちに強烈な実感を持って納得させる力がある説だということ。あまり深く立ち入ると、いろいろ差し障りの出てきそうなところでもあるが、私たちは常日頃「普通」とか「平均的な〜」とかいったことを口にし過ぎるのである。実際には、「平均」などといったものは、美人がそうであるように、そう簡単に目に見える形となって私たちの前に出来することなどない。私たちが「フツー」と呼ぶものは、実のところ「平均のイデア」の影みたいなものに過ぎないのである。こういう講釈は屁理屈としか受けとめられない嫌いがあるが、美人が私たちの生活の中で、如何に珍しいものか、通りを歩いていて年に一度遭遇できれば、その年は長らく記憶から消えなくなるほどのものであることから、リアルな理論であることがしみじみ実感されるのである。

 それにしても、とため息をつかずにはいられないのは、今日の映像メディアの発達によって、私たちの美人像、すなわち女性の平均的容姿は、ますますイデアルなものになってゆきつつあるのではないか。あまりにも豊かなデータ数に比べて、平均の値、平均のイデアは唯一つである。それにぴったり合致する現実など、そうそうそこいらにゴロゴロ転がっているものではない。さらにメディアには平均のイデアの紛いモノ、その近似値に過ぎぬヤカラウカラがあたかもイデアそのものであるかのような面をしてまかり通っている。そういうものに惑わされているかぎり、身の回りの平均のイデアの影の影みたいな女性、実は自分の現実的な人間関係の中ではみごとに平均のイデアを体現しているかもしれない女性を美人と見ることができないという美人に関する目の不自由を抱えることになっているのかもしれない。メディアのまがい物に惑わされさえしなければ、美人はもう少し世の中に多く数えられるようになるのではないか。また、私たちの当たり前の暮らしといったものも、奇妙な欲望を煽られることなく平穏無事なものになるのではないか。

 Judith LangloisとLori Roggmanの説は、そういうことを考えさせてくれるという意味で、その当たり外れにかかわらず、興味深いものなのである。

 

 こういうモーフィングが、ほいほい作られてしまう背景には、やはり銀幕上の彼女たちが平均のイデアの何がしかの影をその身に落としているからこそ、という気がしないでもない。実在した彼女たちのあわいを結ぶ非実在の女性たちにも、さらなる平均のイデアみたいなものが顕現しているようにも見えるのだ。

 

 ダーウィン大先生の観察眼の冴え渡る書。現代日本語による新訳が期待されるところ。

*1:cf. google:Judith Langlois Lori Roggman 1990

*2:【復旧時註】もともと使っていたヴィデオがどうも削除されたみたいなので、同様の別ヴィデオを使っている。公開年が2013年になっているのはそのため。