巨大蚯蚓の春の夜の夢

 今朝*1見た夢。

 

 一面の晴れ渡る砂丘、そこここに大きな穴が空いている。その穴から頭部と尾部の見えない大きな蚯蚓みみずがいくつも仰ぎ見なければならないほど大きなアーチを形作っている。目を凝らしてよく見てみると、細かな毛の生えたギラギラ輝く体節がゆっくりとうごめいていて、あぁ彼らは今移動中なのだな、と何となくわかる。なぜ複数いると考えたのかはわからない。あるいは非常に長い一匹であるかもしれない。

 からすが何羽も飛んできて、蚯蚓の体表をくちばしでつつこうとするのだが、動いているせいなのか、体表のキチン質が硬いためなのか、なかなかうまく行かない。ずいぶん長い間、そういう攻防が続いていたような気がする。鴉の声がいやましに募る中、やがて、しかしそれでもうまく体表をついばんだヤツも出てきたのか、蚯蚓の躰のあちらこちらから、濃い緑の体液が噴水のように噴き出し始める。蠢くいくつもの体表の穴から噴き出す体液は、砂丘をみるみる黒く染めてゆく。

 砂丘に出来た蚯蚓の体液の黒い染みは、どんどんこちらに向かっても広がってくる。あの体液に触れたら大変なことになるぞ、早く逃げ出さなければ、と思うのだが、例によって躰がうまく動かない。それにしても、こんなに傷ついているのに、あの蚯蚓特有の厭な臭いがしないのはなぜなんだろう、どうしてなんだろう、あぁそうかそうか、これは夢なんだな、と思い至ったところで目が覚めた。あの蚯蚓がその後どうなったのか、とても気になる。そんなもの、気にしてもしょうがないのだが。

 穴と蚯蚓という棒状の生き物の取り合わせは、素人目に見るとあからさまに性的な意味がありそうに思えてくるのだけれど、精神分析あたりだとやっぱりそんな具合に解釈されるんだろうか。蚯蚓が複数いるように思えたってあたり、「蚯蚓千匹」なんて言葉からの連想が働いていたりして/(^o^)\。鴉が蚯蚓を啄むなんていうのは、うーん、ある種の不能感か何かかな。砂丘の染み、つまり蚯蚓の傷ついた不能が自分に及ぶことを怖れているわけだ。蚯蚓のその後の運命を気にしているあたり、そこいらへん大いに怪しい\(^o^)/。とすれば、これもまたこじれた春の夜の夢の一つのヴァージョンとして成立するわけだな。しかし、蚯蚓は全貌を現さず、アーチとして登場するというのはどうなんだろう。まぁ拗れてるんだから、いろんなことがあるんだろう\(^o^)/。

 

 夢は本来断片的な映像に過ぎず、たいていの場合は覚醒ののち数分で記憶から消えてしまうものだという。消えずに記憶に残るきれいなお話は、脳が勝手にそれらの断片を継ぎ合わせて立ちどころにテケトーなお話をでっち上げて出来上がるのだとか。そのでっち上げの具合に応じて記憶に残ることもあるとか何とか。例によって怪しげな脳科学のお話だ。そういう話を最近どこかのウェブページで目にした。話の当たり外れは素人の僕にはわからない。でも、なるほどそうなのかもなぁと思えたところもある。

 他人様ひとさまのブログなんぞ読んでいると、やけにきれいにまとまった物語を構成している夢の記述に出喰わすことがある。こんなきれいなお話にまとめられるような結構な夢なんぞ、自分はどうにも見たことがない、さてはコイツら夢の話をでっち上げているのだな、と勝手に決めていたのだが、上のような具合に脳味噌が夢をフィクションとして再構成するとすれば、夢見るヒトの物語的才能の深さの程度に応じて夢が見事にお話として出来上がる/出来上がらないということもまんざらあり得ない話でもない、とどのつまりはこちらの夢のとりとめのなさはこちらの物語的才能の徹底的な欠如によるものなのだな、ということになる。

 やれやれ、こんなことを、なるほどそうなのかもなぁ、と感心してしまうというのは何かしら情けない話だよなぁ\(^o^)/。うーん。

 

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*1: 世間的な標準に照らすと昼なんだけれど\(^o^)/。