東京貼り紙・看板散歩/毎度お馴染みの「国語に関する世論調査」について、あるいは「番茶」と「茶番」、「色男」と「男色」とか

株式社会

株式社会

 

 毎度お馴染みの文化庁による「国語に関する世論調査*1のこと。ちょいと取り上げる時宜を逸してしまったところかな。けれど、別にここはニュースサイトというわけでもないのだから、そのくらいのピンぼけはあってもバチは当たらんでしょ。

 で、どうしてこの手の報道って、と思うことは毎年同じようなことなのだけれど。

 たとえば、 「『にやける』 70%超が誤って使用」(NHKニュース)*2

……「にやける」を「なよなよとしている」という本来の意味で使っている人は14.7%にとどまり、「薄笑いを浮かべている」と誤って使っている人が76.5%に上りました。

なんて平然と書いているのだけれど、「にやける」の「本来の意味」を本当に知っていれば、果たしてニュースで取り上げただろうか。知って取り上げていたとするなら、なかなかNHKらしくない報道として評価されていたかもしれないんだけど。だって、本来の意味は「男色を売る若衆」の「なよなよ」した様子を謂うものだったんだもん。

 にやけるは、「若気(にやけ)」を動詞化した言葉で、漢字では「若気る」と書く。

 「若気」とは、鎌倉・室町時代に男色を売る若衆を呼んだ言葉で、「男色を売る」という意味から「尻(特に肛門)」も意味するようになった語である。

 「若気」を古くは「にゃけ」と発音し、「にやける」は明治頃まで「にゃける」と言った。

 明治時代以降、「にやける(にゃける)」は「ニヤニヤする」という意味でも使われ始めていることから、声を出さずに薄笑いを浮かべる様子を表した「にやにや」や「にやつく」などとの類推から、「にゃける」が「にやける」になったと思われる。

若気る(にやける) - 語源由来辞典hatebu

 これを知れば、たいていの人類は「ニヤニヤする」がそう簡単に誤った意味だとは考えないんぢゃないか。すでに今年は大正元年から100年、明治百年の時代も終わったのだ。そのくらい長きにわたって使われてきた意味ならば、すでに誤りであると断じ得る感覚のほうがどうかしていやしないか。なんか生半可な正しく美しい日本語スノビズムの匂いが芬々と漂うって感じぢゃないか。

……文化庁は「意味を取り違えることで世代間のコミュニケーションに支障が生じる場合もある。共通の理解が必要だ」と話しています。

「『にやける』 70%超が誤って使用」(NHKニュース)末尾

 少なくとも「にやける」に関していえば、報道が云うところの「本来の意味」を知らないかぎり「コミュニケーションに支障」は滅多生じないんぢゃないか。「本来の意味」とまでは云わないけれど、「ニヤニヤする」は、もう充分に「にやける」の語義として定着したと見て構わないんぢゃないのか。むしろ、だいたいこの手の報道があった後は「本来の意味」を知って余計なスノビズムが発動しちゃって「にやける」を使う輩に対して「本来の意味」についてゴチャゴチャご高説を垂れる御仁なんぞがご登場遊ばして、会話がいささか紛糾するというような光景が見られるもんだ。だからして、コミュニケーションに支障を来す原因となるのは、そういう文科省のもっともらしい御託をもっともらしくオシイタダイて報ずる連中であると云わなければならない。だいたいそもそも、会話の中に3つや4つや5つや6つ、意味の取り違えられた単語やわけのわからぬ単語やらがあったとして、それでコミュニケーションが成り立たないなんて事態があるとするなら、それはもう単語の意味不通以外にもっと大きな問題が互いの間にあること間違いなしであることくらい、いい歳をした大人ならわかっていて良さそうなもんぢゃないか。

 あるいはたとえば、 「【主張】国語世論調査 手書きの習慣を伝えたい」(MSN産経ニュース*3

 電子メールなどの普及による情報交換手段の多様化が日常生活に与える影響についての質問では、「漢字を正確に書く力が衰えた」とする回答が66・5%で最多となり、以下、「手紙などをあまり利用しなくなった」「手で字を書くのが面倒くさく感じるようになった」の回答が続いた。

 子供でも携帯電話やパソコンなどの情報機器を使う時代だから、このままでは手書きを面倒がる傾向が低年齢層にまで及び、国語能力の低下につながりかねない。教育現場だけでなく家庭でも手書きの効用を見直す必要があろう。

なんて、もうワープロが登場してから何度書かれたことかわかんない紋切り型。

 そもそも、一般庶民が今日ほど字を書くようになった時代はない。電子メールだってそうだろう。昔のヒトは手紙を書いたもんだといってもいったいどれほどの分量だったか。昔がいつだったかを問わず、文字数に換算すれば今よりずっと少なかっただろう。ってか、一般庶民――つまりたいていのこのブログの読者や僕自身のことだ――がこぞって文字なんぞを書き付けるようになった歴史は、「にやける」が「ニヤニヤする」の意味で用いられ始めてからのソイツと大差ないと見ていいだろう。そういう環境の違いを念頭において考えれば、本当に以前と比べて「漢字を正確に書く力が衰えた」のかどうか。うっかり文字を手書きせねばならぬ折に出喰わして、あらま恥ずかし書けない漢字。昔ならば申し開きの出来ないところ、都合よくコンピュータなりケータイなりスマートフォンなりが目の前に転がっている。そうそう、おいらの物覚えが悪いんぢゃない、こいつらが悪いに決まっている、というわけだ。

 実は大詩人西脇順三郎の作品にだって、

ばらといふ字はどうしても
覚えられない書くたびに
字引をひく哀れなる
夜明に悲しき首を出す
窓の淋しき

西脇順三郎「旅人かへらず11」

なんてわけのわかんない作品がある。ワープロ、コンピュータ、ケータイを使おうが使うまいが、凡人たる我々が字引を使わずにスラスラと「薔薇」の字を書けなくったってそもそもだいだい仕方がないことと承知しておくくらいが、文化伝統に対する敬意を失わないには都合がいいくらいだろう。

 この手の「【主張】」がいかにいい加減かを論じるには、本当はそういうまともな話を持ち出す必要さえないのだ。教育現場や家庭といった狭っ苦しいところで手書きを見直したって大した成果は上がらない。マス・メディアで手書きを見直してこそ、世間様が手書きの素晴らしさとやらに目覚める機会は増えるに決まってる。だからして、それほど重要だというんならまずは産経新聞は活字なんぞ使用せずに手書き原稿を印刷して紙面を構成し給え。話はそれからだと云いたいところ。要するに、本気で語ってなんぞいないんだよな、不真面目な主張なんだよな、こういうのって。

 

 言葉やそれをめぐる習慣は否応なく変わるものだ。だからそれを放置しろ、とは云わない。言葉は集団の規範の一つではあって、これを出鱈目に扱っていいなんぞという理屈はない。ただし、規範一般にも云えることだが、こいつが固定してガチガチになってしまえば、それはもう使い物にならない。使い物にならないどころか、しばしば世間様の邪魔になる。使い物にならなくなった「本来の意味」なんぞは捨てるにしくはない。規範を改正するのは、少なくとも民主主義社会では原則的には民意による。言葉の事情も似たようなものだと考えるべきだろう。

 長い歴史の中で変化することを言葉の伝統は力としてきた。そいつを捉えず、過去の一時点において流通していた「本来の意味」のみを以って正しい日本語と見るのは、むしろ伝統破壊的な見方なんぢゃないのか。そんな偏頗なものはウッチャッテおいてよろしい。つまり、「にやける」は、もはや「ニヤニヤする」としていい。今さらわざわざ本来の「男色的なよなよ」や「肛門」なんかの意で解す必要はない。そんな解し方をご推奨遊ばす輩ウカラは、浅はかなスノッブとして笑い飛ばすくらいが健全なのだ。

 これも以前書いたことだけれど、語彙のレヴェルで「国語力」を云々するのであれば、たとえば「論理」と「理論」の意味の違いの理解を調べてみるほうが現在の僕たちの社会にはよほど有益に決まっている。「社会」と「会社」、「出家」と「家出」、「茶番」と「番茶」、あるいは「色男」と「男色」が違うように、「論理(logic)」と「理論(theory)」は当然ながら意味が違うのだ*4。でも、そちらになってくると、結構な数の大人であれ若者であれその他いろいろであれ、自分の語彙力を深刻に反省する必要を自覚せざるを得なくなってくるんぢゃないか。

 「論理」と「理論」のような言葉について知っているか知らないかは、「にやける」の本来の意味を知っているかいないかどころではない問題だ。前者こそが筋の通った理屈を理解したり構成したりするのに不可欠な語彙なんだもん。で、ロジカルに考えることもまた昨今の世の中が重視していることらしいぢゃないか。そうなると、「にやける」がどうしたこうしたなんぞにかまけている暇はないんぢゃないか。そちらはどちらかといえば、趣味と教養に類する話であって、今日必須の知識ではないだろう。ところが、「論理」と「理論」の違い、あるいは「観念」と「概念」の違いでもいいのだけれど、そこいらへん、辞書にだってわかりやすい説明がなかなか出て来ないのが現状だったりする。

 論理は形式であって、内容=意味そのものではないかもしれない。だから、理屈を構成するのに語彙力が必要だというのは変な云い方に見えるかもしれない。でもさぁ、文章は論理記号で書かれるわけではない∧日常的に論理の組み立てに頻用される語彙というものはやはりあるに決まってる。そいつがわかんないと読めないような文章は、そこいらへんにゴロゴロ転がっているのだ。そこんとこ、もし話が通じないとすれば、うーん、事態は結構深刻なんだってことだろうなぁ。

 言葉や言葉をめぐる習慣について、あんまり世間様は真面目に考えていない。毎度、この手の国語力論議に出喰わすたんびにうんざりすることだ。ぶー。ってあたりで、もう書くのが面倒臭くなってきたのでオシマイ!

 

Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社
売り上げランキング: 92,549

 

百年前の日本語――書きことばが揺れた時代 (岩波新書)

 

*1:cf. 『平成23年度「国語に関する世論調査」の結果の概要』(文化庁、PDF)hatebu

*2:【復旧時註】すでに削除された模様。

*3:【復旧時註】すでに削除された模様。産経のサイトとしては珍しくない?

*4: もちろん、どちらの言葉も漠然と「考え方」を指す言葉として使われることだってある。でも、logicと theoryを同義語だと云い募るヒトはいくらなんでもいないでしょ。いるかもなぁ\(^o^)/