文字を浴びる/特別展「書聖 王羲之」東京国立博物館

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 やっとこ、「書聖 王羲之」展へ出かけてきた。アレコレあって充分な時間をかけてはいられなかったのだけれど、ひさしぶりの美しい文字のシャワーを浴びた心持ち、ミラー・ニューロン*1興奮しっぱなし状態で、館を出たときには汗びっしょり。参った参った。って、まぁ汗のほうは、ちょうど昨日「特別展『書聖 王羲之』10万人達成!」(東京国立博物館 - 1089ブログ) hatena bookmarkという、予想外のヒトの混み具合のおかげさまというところなきにしもあらずなんだけれど。

 甲骨文字や後代の作品なども並べられていて、書道をめぐるアレコレに疎いヒトにも王羲之の歴史的位置がそれなりには把握できる展示、じっくり付き合うには2、3時間みておくべきだったかもしれない。金曜日なんかぢゃなくて平日の昼間を狙うことも重要か。できれば、空いている折にもう一度ゆっくり眺めに出かけたいところだけれど。

 

 それにしても、と思うのは、王羲之の場合、真蹟*2が残されていないにもかかわらず、書の神様みたいな具合になっちゃったこと。模本や拓本が残っているだけ。それでも、見ればあぁ王羲之だなと見えちゃうんだから、打ち立てた書風がいかに確固たるものだったのかということになる。

 さらに、漢文の訓読法のあれこれなどすでに記憶からは消え去り、展示された文字はほとんど純粋な形としてしか見えてこない。見えてこないにもかかわらず、ただその形がこちらの心を惹く。実際のところ、すらすらと読めたとして「蘭亭序」は格別におもしろい詩文であるとは云い難いだろう。といって、もしこれらの線が言葉と完全に無縁のものであったとしたら、果たしてヒトはこれを味わうという風習を持ち得ただろうか。惹きつけられる心は動かしようのないものではあるけれど、それでもこれは一体どういうことなんだろうと考え込んぢゃうよなぁ。

 

 以前も書いたことだけれど、健常者なら手はもっとも自由にコントロールできる身体部位であるはずだ。にもかかわらず、思うようには字が書けない。とするならば、まずは頭の中の書かれるべき文字のイメージが貧弱だと考えることができるのではないか。頭の中の文字がそもそも美しくないのだ。とどのつまりは、日常に美しい文字が存在していない、もしくはそれに注視する暇がないから、そういうものが頭の中に存在しないということではないか。

 というわけで、王羲之に関心がなくたってちょいとばかりでも自分の書く文字をマシなものにしたいと思うヒトなら、全部ていねいに見なくたってかまわないから、気に入った書に出喰わした折ばかりは周囲の迷惑なんぞかえりみず、じっくり文字の一つ一つを頭に叩き込んでおくといい。そういう意味でも、出かける値打ちのある展覧会なのだな、たぶんまぁ。

 

 展覧会そのものについては以下を当たられたし。

 中国語がわかんないし\(^o^)/、なんだか嘘臭いアニメでございますが、書聖もまた一日にてはならずということでございましょうか。中盤以降、王羲之先生、「之」の字に悩むわけだけれど、これ、展覧会で 「蘭亭序」 をご覧になる際、気をつけてご覧になっていい字なのだ。同じ「之」が、決して同一の字体に収まらないヴァリエーションで書かれていて、所謂「お習字」的な小じんまりとした「きれいな字」とはひと味もふた味も違う具合。まぁ「蘭亭序」は酔っ払って書かれたっていう話だから、おかげでそうなっちゃったのかもしれんけどさぁ\(^o^)/。

 ちなみに、アニメでは鵞鳥が重要な転機を作っているが、これは有名な王羲之の鵞鳥好きに由来する設定、創意なんだと思う。たぶんググればいろいろ出て来そう*3

 

 ついでながら。

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 国立博物館敷地内からも東京スカイツリーが見えた。

 

王羲之――六朝貴族の世界 (岩波現代文庫)

王羲之――六朝貴族の世界 (岩波現代文庫)

 

 

*1:cf. google:ミラー・ニューロン

*2: 本人が直接筆で書いた書のこと。このへんの話はいささかならず紋切型に属しちゃうから、迂闊に口にすると小馬鹿にされちゃうこともある。とはいえ、書という具体的なブツがないのにその道の……というのは、話として不思議だと感じるのは、別段おかしな反応ではないと思うな。まぁおかしくないのが気に入らないというヒトがゐても構やしないけれど。

*3:cf. google:王羲之 鵞鳥