東京スカイツリーと銭湯

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押上あたりだったっけか

 ふっと見上げるとスカイツリー。どこにいても見下され監視されているって感じだな、下町は。東京パノプティコンってなもんですぜ、こいつぁ。

 

 ロラン・バルトエッフェル塔』冒頭の、知っている方には何を今さらな小噺。モーパッサンエッフェル塔のレストランでしょっちゅうランチを摂った。塔が好きだから、ではない。彼はエッフェル塔嫌いで有名だったとかで、《パリで塔が見えないのはこの場所だけだ》とか厭味なことを語っていたんだそうな。厭味な上に実は新しもの好きのスノッブ根性をもこっそり体現したかのようなみごとなエピソードぢゃないか。下町住まいの本邦の作家さんあたりも、ニッポンチャチャチャ根性を発揮して、おフランスなんぞの書き手に負けぬスカイツリーネタのエピソードの一つや二つ、捻り出していただきたいものである。

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2009年、浅草通り沿い不動産屋。左下の物件以外には建設中のスカイツリー写真が見える。

 ホントのところ、東京下町でもいくらでもスカイツリーが見えない場所はあるものであって、だからむしろ界隈の不動産屋の表には、「スカイツリーが見える美室」みたいな貸し部屋の売り文句もわざわざご登場遊ばす次第、実は今はもちろん昔のパリだってそうだったんぢゃないのぉ、って気もするけれど、そういう指摘は野暮というもの、バルトの論旨をなぞって不在の中心がうんたらかたら*1とアレしてもいいけれど、眺める主体のうちにあってこそ眺められずに済むという何だか身体論にでも登場して来そうな話の拗れ方に目を向けてこそスノッブってなもんで、なるほど、自分の躰ほど直接眺められないものはないというようなことを、スカイツリーとは関係なく思い起こしたりする。というようなアレではちっとも日本的な話に落ち着かんな。うーん。

 話はいささか飛んでしまうが、セイモア・H・フィッシャー(Seymour H. Fisher)によると、入浴の心地良さは、湯による皮膚への刺激によって、ふだんは直接にはたしかめられない自分の躰の輪郭をくっきりと感じ取れるようになり、己の存在の輪郭がたしかなものとなって気持ちが安らぐところから生じるとかなんとかなのだそうな。入浴時の気持ち良さは、むしろフニャフニャにふやけきって己が輪郭があやふやになったときにこそ味わえると信じて疑わない自分には、これだから欧米人の云うコトはインチキ臭いんだよなぁとしか思えないのだけれど、入浴が視覚的経験の欠落を補う触覚的体験であるというふうな整理を頭にもたらしてくれたのはありがたいところで、そうか、ヒトというのはもれなく己が身に関しては視覚不自由だから、裏返しに触知するようにして己が身を感じ取ろうとするわけなのかもしれず、しかし、そうやって感じ取ろうとした果てに湯に溶け出してしまう己が輪郭の様に快楽を覚えるというのは、ちょっとここでササッと説明するのが面倒臭いから説明は省くけれど、アレコレ自分が考えていることに好都合な考察のフレームになるかもしれないな。

 と、他人様ひとさまには通じそうもない話を独り合点したりするのであったが、独り合点はさておき、このへんをどうにかごまかしてスカイツリーネタを強引にねじ込めば、下町にあまた生き残る銭湯話なぞ交えたニッポンチャチャチャなエピソードの捏造もまんざら難題というほどのこともないかもしれない。

 東京スカイツリーなんぞ、嫌いだ*2。ところが東京下町に暮らしていると否が応でもこれを目にしないわけにはいかない。だから、私はこれを見ずに過ごせる絶好のスポット、銭湯に日々なるだけ長い時間入り浸ることにしている。銭湯に入ってしまえば、あの無骨な鉄の塊を目にせずに済む。近所の銭湯の湯舟に浸かり、壁絵の赤富士などを眺めながらゆったりと過ごす。少し熱めの湯に身のふやけるを任せ、スカイツリーが象徴するような多忙な日常の裡にこわばった躰の輪郭がほどけてゆくのをしみじみ実感する至福のひとときである。

 とか何とか。

 しかし、世の中そう甘くないのであった\(^o^)/。

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『1010』から。いつの号だったっけか?

Σ(゚д゚lll)ガーン

 

 と、そんなこんなで、スカイツリーの天望回廊には銭湯を設けるべきだと思う今日この頃。ということにしておく。

 

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*1: 違ったっけかな\(^o^)/。何にしても押上・業平では「中心」たる資格がないからなぁ。うーん。なんちゃらの「中心」とか「可能性の中心」とかは、もう廃れた流行語ということで、「不在の遠心」とかテケトーな用語を捏造していい加減なことを書くというのはアリかもしれない。(ヾノ・∀・`)ナイナイ

*2: このエントリの書き手本人はさにあらず。為念。