堺貼り紙・看板散歩/旧堺燈台
これはいつぞや紹介したマンホールの蓋。
これはそう大昔のものとも思えない近所で見かけたプラスチック板のポスター。
堺に関心がおありの方なら、2つの共通点として「旧堺燈台」が描かれていることがお分かりになるだろう。しかし、この2つは、「旧堺燈台」の現状をあまり正確には描いていない。
これが「旧堺燈台」の現在の姿だ。もちっと部分拡大でお見せしよう。
これならばどうか。要のつまりは灯室部分が違うのである。
旧堺燈台の設計上の大きな特徴の一つに、灯籠灯室部分が正八角柱であるのに建物本体部分は正六角錐であるというのがある*1。ところが、冒頭二つのデザインは、この特徴を無視して円筒にドームを載せたような形で灯室部分を描いている。
実を云えば、灯室部分がドーム状であった時期というのが「旧堺燈台」にはあり、その際の形状を
2003年、この年から始められた保存修理工事直前に撮影された写真なのだそうな。実は僕が長らく記憶していた「旧堺燈台」はこの形のものだった。こういう姿は姿で、使われ続けてきた灯台のものとしては大したものぢゃないかと僕なんかは思うのだけれど、《現地に現存する木造洋式燈台としては、わが国で最も古いものの一つとして、昭和47年に国の史跡に指定されています》*3ともなると、そうもゆかぬということなのか。使われ続けてきたというあたりにこそ、保守すべき文化的な意味もありそうな気がするのだけれど、新たに旧に復するというわけのわからないあたり、「日本を取り戻す」とかいう、現に目の前にあるというか己がその只中で暮らしているもの、つまりは取り戻すまでもないものをわざわざ取り戻すんだという、さらにわけのわからないあたりと同じく世間様には通用しやすいということなのか。はてさて。
いくら往時に復してみたところで、ちょいと引いて眺めればこのテイタラク。うっかりすると、バックに見える工場だか倉庫だかの、本当にやって来たのだか来なかったのだか極めて怪しいところの南蛮船がウヂャウヂャと描かれている壁画のほうが目立ちかねないという始末、すなわち不始末。そこいらへんも世間様の「取り戻す」というスローガンに見合った情けなさっぷりを体現しているというべきなのかな。うーん。
往時の姿は、古い写真で十分
参考文献、みたいな
お出かけになる折の参考に。残念ながらストリートヴューでは、「旧堺燈台」写真は確認できない。周囲に車が入れないからなぁ。南海本線堺駅からべらぼうに離れているというわけではないし、わかりにくい場所ってわけでもないと思う。万が一、道を誤っても、
というような案内も、さほど多いとは云えないがあるにはある。
- 旧堺燈台 堺市
- 旧堺燈台 - Wikipedia
こちらのほうが灯台の成立については多少詳しいかな。
- Vol.011 堺港「旧堺燈台と龍女神像」| シリーズ 港の横顔 | 日本船舶海洋工学会
- 江戸時代の堺港と燈台 堺市立図書館
中世自由都市のお話からすると、南蛮船の寄港があろうがなかろうが、それなりの港はあったわけで、その当時から燈台の類、一つや二つあったってバチは当たらなさそうなものなのだけれど、記録に残っているかぎりでは、1689(元禄2)年が最古らしい。《堺奉行佐久間丹後守在勤中、堺市街万(よろず問屋・米問屋・魚問屋等ヨリ航海者の弁((便))利ヲ議り、請願シ集銀ヲ以、築造被仰付、初テ建築ス》(「堺港灯台起源沿革書」(『堺市史第六巻』1930(昭和5)年収録)*7。
- 旧堺燈台の建築 堺市立図書館
- 絵葉書と写真に見る旧堺燈台 堺市立図書館
- 「アーバンリゾート」大浜のにぎわい PART2 堺市立図書館
- 旧堺燈台の今日と明日 堺市立図書館
何度目の紹介になるかわかんないけれど、堺に関心のあるヒトは必読ですな、これ。もう出版されてずいぶんになるから、書かれた内容が今もそのまま通用するのかどうかはよくわかんないけれど、史料に当たりながら考え直す姿勢みたいなのは読んでいて愉しい。そこいらへんは話の当たりハズレに関係ない本書の美質なんだと思う。
*1: ここいらへん、実は「旧堺燈台」の成り立ちに関わる興味深いあれこれがある。詳細は、中井正弘『南蛮船は入港しなかった 堺意外史』(澪標)pp.93-119、「地元の大工・石工が設計・築造 港の近代化をめざした旧堺港灯台」、とくにpp.104-109あたり参照されたし。
*2:堺市立中央図書館、「絵葉書と写真に見る旧堺燈台」 から拝借。
*3: 「旧堺燈台」(堺市) 。
*4: 「絵葉書と写真に見る旧堺燈台」(堺市立図書館) から拝借。これと同じ写真は、「旧堺燈台」近くの案内板にも用いられている。しっかしなぁ、「大浜」が「Great Beach」とは畏れ入ったぜぃ(^_^;)。
*5: もちろん、なんでもかんでもがそうだとは思わない。たとえば、慧海が学んだ清学院のように、テンでこれまでうっちゃらかしにしてきたテイタラクぶり、ボロボロの建物をシャキッと修復したようなヤツは、これを許さないわけにはまいらない。
*6: なぁんてなことはなさそうだけれどさぁ。うー。
*7: ここでの引用は、中井正弘『南蛮船は入港しなかった 堺意外史』(澪標)、「江戸期の堺港灯明台の変遷」p.67による。強調引用者。ちなみにこの「江戸期の堺港灯明台の変遷」、個人的にはきわめて興味深かった。元禄に出来たという最古の灯台、実は現在の旧堺港よりもずっと内陸、南海本線堺駅のさらに内陸、北東側にあったとされているのだ。うーん。そうなってくると「中世自由都市」時代の堺港の遺構なんて、もう完全に破壊され尽くして残っていないってことだったんだなぁ。僕はてっきり現在の「旧堺港」は中世からずっと続いているものとばかり思い込んでいた。知っている方たちにとっちゃぁ常識なんだろうけれど、この歳になるまで知らなかったとは、まぁいやはややれやれの迂闊ですね…(;´Д`)ウウッ…。