本日の堺散歩/時計台、電話ボックス、燈台

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 大小路の堺市立市小学校前の時計台。灯室が円柱形になっていることで、修復工事前の旧堺燈台を模していることがわかる。

 

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 堺市役所前公衆電話ボックス。年末年始ライトアップの電飾で少々わかりにくいが、

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やはり灯室部分が円柱形で、修復工事前の燈台を模している。

 

 本家「与太」からの持ち越しの話題だから、ちょっとこれだけぢゃわけがわかんないという方も出て来そうだから、以下、簡単に話を振り返っておく。ちゃんと記憶に留めて下さっている方にはクドくてごめんなさいm(_ _)m。

 

 旧堺燈台そのものについては、以下のページを当たることであらましは理解できる。

  で、「与太」で何となく気にしていたのは、

 旧堺燈台は堺市のシンボルのひとつとされ、市内各所でモチーフとして使用されている。旧堺燈台をモチーフにした公衆電話ボックスや時計台、旧堺燈台をデザインしたマンホールなどが、堺市内にある。また1997年に開催されたなみはや国体を記念して、堺市内の和菓子製造業者らが共同で、旧堺燈台をかたどった「堺燈台もなか」を開発している。(略)

「旧堺燈台 備考」(Wikipedia)*1

と語られる電話ボックスや時計台、マンホールその他のデザインのあり方と修復工事のこと。

 実は現在、旧堺港にある旧堺燈台は、2005年から2007年に行われた解体修復工事によって1877年の、完成当時の形に戻したものになっている。

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現在の旧堺燈台

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と、灯室部分が八角柱になっている現在の旧堺燈台。修復工事前の旧堺燈台は、

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と、灯室部分が円柱形になっている。この形に改められたのは、1952(昭和27)年、戦後になってからのこと。つまり、半世紀以上はこの形でヒトビトの目に触れて来たわけだ。そのため、《旧堺燈台は堺市のシンボルのひとつとされ、市内各所でモチーフとして使用されている》というときのモチーフにされている旧堺燈台は、ほとんどの場合、修復工事前のものなのだ。冒頭の2つもすでに触れたように修復前のもの。本家「与太」で取り上げたものの中からいくつか以下に並べてみよう。

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ポスター類

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マンホールの蓋

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歩道の欄干

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街灯

といった具合。他にも公園の遊具や一般店舗の装飾などにも、この旧堺燈台デザインは採用されていたりする。

 ご覧になればわかるように、いずれも円筒型の灯室を模したデザインになっている。半世紀以上、この形姿に馴染んで来たのだからこういうデザインが自分たちの街を象徴する形として選ばれるのは全然不自然ではないだろう。ところが、旧堺燈台が以前の姿に戻されたことで、こうしたデザインは何となく梯子を外されちゃった感じに見えてくる。

 旧堺燈台が現在の姿に落ち着いた経緯を知っていればそんなことはないだろうけれど、観光で堺を訪れたヒトには、たとえば街灯や欄干のデザインが旧堺燈台に因むものだとは見えないだろうし、旧堺燈台を模した電話ボックスや時計台の灯室は八角の再現が面倒だから適当な円筒でごまかした造形の手抜きのように見えなくもないだろう。それはそれで切ない話ぢゃないか。

 もちろん、旧堺燈台のかつての姿そのものにこだわりがあるヒトたちがいることもまた当然ではあると思う。明治期の他の官製灯台の類がお雇い外国人の手になる設計によって作られたのとは異なり、一部灯室などを除いた多くが地元のヒトビトの手によって設計されている。明治の官製灯台は灯室部分だけでなく灯塔部分も断面は八角形であるのに、旧堺燈台は灯室部分断面は八角形であるのに灯塔部分の断面は六角形になっているのもそうした事情によるらしい*2。にもかかわらず、今に至るも多くの観光案内の類にはお雇い外国人の設計みたいに読めるものがたくさんある。となると、中世自由都市時代ばかりではなく近代においてだって、地元の自主独立の風があったことを世間に知らせて誇りたいと考えてもおかしくない。そのためには独自性のはっきりと現れた建築当時の形へのこだわりもまたあってしかるべきものなのだろう。文化財の保存管理といった面でもそういう復元は珍しくないってこともあるんだろうし。

 とはいえ、使われてきた形、愛されてきた形が蔑ろにされて良いということにはならないんぢゃないか。今さら灯室の形を円筒のヤツにまた戻せなんぞと云えば、これはもちろん暴論ってことになっちゃう。けれど、せめて、半世紀に亘って使われ続けていた姿もわかりやすい形で広く知られるようになればいいんだがなぁ、とは思うのだ。一応、堺市博物館hatebuに保存展示されていはするのだけれど、そのことを知っているヒトって身のまわりには全然いない。たまたま僕の身のまわりだけがそうなんだろう、とも思えない。

 

 文化ってのは何も古さを競って保存するようなものでもないんぢゃないか。学術研究の対象としては古いってことそれ自体も重要であるには違いないんだろう。これは文化財保護がやたらと蔑ろにされている日本では強調されていいことではある。でも、文化が文化として生きているというのは、それとともに暮らしてきたヒトビトとの関わりにおいてあることだ。そういうことを考えると、さて、ヒトビトが長らく暮らしを共にしてきた形もまた尊重されていいんぢゃないか。そういうことを考えたりする。

 そこいらへん、何かいい方法があればいいのだけれど。

 

南蛮船は入港しなかった―堺意外史

南蛮船は入港しなかった―堺意外史

 

 

*1: 2015年1月11日閲覧。

*2:中井正弘『南蛮船は入港しなかった 堺意外史』(澪標)、pp.93-113