堺貼り紙・看板散歩/書体
またこういう書体*1。こうなってくると、この界隈には、こういう字をお書きになる書家さんがいらっしゃるということなんだろうか。
ほれ、本家「日々の与太」で取り上げた交番の看板のことを思い出すでしょ?
これこれ。
書体、違うといえば違うんだけれど、似ているといえば似ているかもという程度には似ているような気がする。たぶん、小学校のが初期形で交番のがその後間があって後の作品という感じ。デザイン的にもてっぺんにトレードマークがあって、名称が続くというパタンは同一だし。
だれもがうまいと感じるものではないかもしれないけれど、パッと見で名称が理解できる字になっている点、変な達筆で書かれたものよりは実用的。味気のない活字っぽいレタリングぢゃないし。こういうのはこういうのでいいのかもなぁ。
でもせっかくこういう書体でがんばるなら、小学校のほう、交番のくらいくっきりと普通ぢゃないぞというあたり突っ張ってみたいところか。何事も初期は突っ張り具合が足りないというのが世の常だということか*2。うーん。
書体といえば……
- デジタル時代の横書き明朝体「TP明朝」 「アルドノア・ゼロ」が採用、ディスプレイにも文学的なたたずまいを - ITmedia ニュース
- ASCII.jp:明朝体は絶滅するのか? AXIS Font生みの親の挑戦
というような話が最近のこととして気になる。明朝体の絶滅なんちゅうような事態は、こちらが老頭児なせいかもしれないけれど、ちょっと想像がつかない。それよりは、「コンピュータ時代の文章作法」*3で触れたこととの兼ね合いのほうに関心は向く。やはり明朝体は文化みたいなものになっていて、それにこだわりのあるヒトたちもいらっしゃるのだな。
自分もかつて「小論文の道具箱」時代には、明朝体を表示フォントとして指定していた時期があった。ゴシック体と比べればなにがしかの重みみたいなものが感じられるからだ。でも「コンピュータ時代の文章作法」で取り上げた清原一暁、中山 実、木村博茂、清水英夫、清水康敬「文章の表示メディアと表示形式が文章理解に与える影響」(CiNii 論文) を読んで以降、そういうのはただのスノビズムかもなぁと考えるようになった。「文章の表示メディアと表示形式が文章理解に与える影響」が正しいとすれば、ディスプレイで明朝体を採用するというのは、少なくとも内容の理解を優先する立場からすれば最悪の選択ということになる。それとも新しい明朝体は、そこいらへん、見た目の感覚的な読みやすさを越えた考慮した上でのフォントデザインの工夫が凝らされているのだろうか。
主題は興味深そうなんだけれど、未だお目もじ叶わない。うーん。