芥川龍之介に「蜜柑」という短編がある。『新潮』に発表された折には「私の出遇つた事」と題されていたこと、米騒動の翌年に発表されたこともあって、芥川にしては珍しく体験に基づいたリアリズムぢゃんとか何とかいわれているヤツ。そう受け止めたって別に構いやしないんだろうけれど……。
この作品の見せ場は間違いなく、
……するとその
瞬間 である。窓 から半身 を乘 り出 してゐた例 の娘 が、あの霜燒 けの手 をつとのばして、勢 よく左右 に振 つたと思 ふと、忽 ち心 を躍 らすばかり暖 な日 の色 に染 まつてゐる蜜柑 が凡 そ五 つ六 つ、汽車 を見送 つた子供 たちの上 へばらばらと空 から降 つて來 た。……
とその前後あたりだという点で大方の同意は得られるだろう。たしかに《忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて來た》は見事なものだと思う。蜜柑のオレンジと空のブルーという補色関係の美しいコントラストは息を呑む以外に対処のしようもないくらいだ。けれど、この部分が見事なのは、そういう部分的な言葉の選択によってのみのことではない。書かれている言葉を忠実に辿り続けてきた読者であれば、この一節は如何にも唐突で不自然なものであると気づくはずである。
話の発端を思い起こしてみるといい。
或 曇 つた冬 の日暮 である。私 は横須賀發 上 り二等 客車 の隅 に腰 を下 して、ぼんやり發車 の笛 を待 つてゐた。とうに電燈 のついた客車 の中 には、珍 らしく私 の外 に一人 も乘客 はゐなかつた。外 を覗 くと、うす暗 いプラットフォオムにも、今日 は珍 らしく見送 りの人影 さへ跡 を絶 つて、唯 、檻 に入 れられた小犬 が一匹 、時時 悲 しさうに、吠 え立 ててゐた。これらはその時 の私 の心 もちと、不思議 な位 似 つかはしい景色 だつた。私 の頭 の中 には云 ひやうのない疲勞 と倦怠 とが、まるで雪曇 りの空 のやうなどんよりした影 を落 してゐた。私 は外套 のポケットへぢつと兩手 をつつこんだ儘 、そこにはひつてゐる夕刊 を出 して見 ようと云 ふ元氣 さへ起 らなかつた。ibid.
芥川作品によくあるパタン、お話は夕刻に始まっている。ただもうこのことを思い浮かべるだけで、先の山場の不自然はご理解いただけるのではないか。「或曇つた冬の日暮」、「電燈のついた客車の中」、「うす暗いプラットフォオム」、「まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた」……時間帯であれ天候であれ、いずれも暗い。その発端から山場に至るまでにどれほどの時間が経過したのか、正確なところはわからない。わからないけれど、翌日の朝なり昼間なりに至るほどの時間は経過している様子はない。とするならば、窓外の光景は一層暗さを増すことはあっても、小惑星なり隕石なりの大気圏突入によって大火球が生じるといった事態でも生じないかぎり明るく変わる心配はまずないといっていい。ならば、「心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑」など目に見えるものとしては不可能事なのである。もちろん、それはその瞬間目に見えた蜜柑の具体的な見え方を描いた言葉ではないと言い募ることも出来なくはないかもしれないが、しかし、その言葉から、光の中、青空を背景に宙に舞う果実を想起しない読者はそんなに数多くはいないだろう。実際に数えてみたわけぢゃぁございませんが。気がつかないにしたって、見せ場までの言葉をたどっていれば、その、暗い暗い印象くらいは頭にあって、その暗さとのコントラストのおかげで、補色のコントラストはさらにくっきりと明るい印象を読者に与えることになる。
また、一読すればまず誤解しようもないこと、したがってまたここいらへんはいくらなんでも説明は要しないと思いたいところだが、本作品は一貫して「私」の視点から描かれている。したがって、蜜柑の落下も本来的には「私」は客車の窓から眺めているとしか読みようがない。とするなら、「小娘」がよほど高く蜜柑を投げ上げなければ、「私」の視点からでは「空から降つて來た」とは語れないのである。しかし、「小娘」は手を「勢よく左右に振つた」だけであり、高く投げ上げたことを伺わせる言葉は一切ない。つまり、ここでは車内の「私」から「子供たち」への、現実にはあり得ない視点の切り替えが行われているわけだ。
リアリズム的表現を貫くなら、《暗い影だけの蜜柑がおよそ五つ六つ、見送った子供たちの頭の上にばらばらと落ちて行った》とでも書くより他ないことになる。そうなってしまうと、先に触れた空に舞う蜜柑、ブルー地に複数のオレンジの点のコントラストはテキストにはあらわれ得ず、見どころは見どころの力を失い「蜜柑」の魅力も完全に消え去る。つまりこの核心的な部分は、どうころんでも体験に基づきようがない、あくまでも言葉の上での出来事なのである。
「蜜柑」の見どころが見どころであるためには、見どころ自体は輝かしく明るくなければならず、一方見どころが際立ったものであるためには、お話の環境自体はあくまでもどんよりと暗くなっていなければならない。そうなるとどうしたって表現は何らかのあからさまな不自然を抱え込まざるを得ない。しかも、幻想小説や超現実主義的散文詩を目指しているわけではないこの芥川作品にあっては、表現はあくまで不自然を感じさせないものでなければならないだろう。
で、実際のところ、時間の経過を考えた場合の光の不自然と視点切り替えの不自然、2つの不自然を抱えてなお不自然に気づく読者が少ないという現実は、やはり芥川の筆の冴えの賜物ということになる(んぢゃないか)。
とまぁそんなこんなで、「蜜柑」はリアリズムというよりも言葉の技術の集積として形を成している。そこいらへんを読まずに、体験に基づいたリアリズムがぁとか登場人物の心情の色彩による表現がぁ云々とかなんぞと語っていると、芥川は間違いなく草葉の陰で舌を出している。見せ場に至る技術の詳細は、例によって面倒臭くなって来たので書かないけれど、各自、本文に当たって考えられたし。って、愉しみとしての読み流しの読書としてなら、まぁそのへんはどうでも別にいっか、という気もするけれど、うーん、学校とか塾とか予備校とかで教材として扱われる折にはそういう話が全然なされないっちゅうのもどんなもんかな、とは思うなぁ*2。というわけで、「蜜柑」の話、どうせもうだれかが口にし書きもしたんぢゃないかとは思うんだけれど*3、こういうところに書いておいても、まぁバチは当たらんだろうと思う折があったので、とりあえず。
- 芥川龍之介「蜜柑」(青空文庫)
旧字旧仮名版。この作品の場合、青空文庫には他に新字旧仮名版、新字新仮名版があるけれど、面倒臭いので自分で目を通したヤツへのリンクだけあげておく。
- 芥川龍之介「蜜柑」(えあ草紙)
青空文庫と同じく3通りの版がある。
- 芥川龍之介「蜜柑」(Kindle無料版)
こちらは新字新仮名のみみたい。
アマゾンで「芥川龍之介 蜜柑」で検索したら出てた。目次を確認したら「蜜柑」についても話が出ているみたい。ひょっとすると上に書いたことと被る話が出て来るのかしら。そうだとしたら、うーん、このエントリもずいぶんお間抜けを仕出かしているってことになるかも。( ತಎತ)。
*1: マンセル・カラー・システム - Wikipedia より拝借。色相環の円周上、お向かいにある色相を互いに補色の関係にあるという。お互いの色彩効果を高め合うといわれている。カウントしたわけぢゃないけれど、日本の近代文学中、補色の関係を用いた表現はそんなに多くないんぢゃないかな。あるとしてもまず赤と緑。イタリアン・カラーかなぁ。
*2: 「蜜柑」は国公私立を問わず大学入試で複数回出題歴がある作品なのですぢゃ。っと、公立はなかったかな(^_^;)。高校入試にだって登場していた例があったはず。
*3: たとえば、視点の切り替えについては、ここの常連さんなら目にしているであろう、@borujiyaza1 百合の旗印 (@nora_cura_) | Twitter先生の「日本近代映画の起源」(borujiaya) にも言及がある。