本日の散歩/萩原天神

 過日所用の道すがら、萩原はぎわら天神*1。小さくても天神様の前なんだから「天神橋」を名乗らないでどうする、ってなもんか。

 これは以前にも一度取り上げたことがあったかな? 発泡スチロールのケースをプランター代わりにしているの、まさか宮司さんがやらかしているってわけぢゃないよねぇ。

 まだまだ新しく見える狛犬、というか両方ともつのが見当たらないから獅子なのかな。なんとなくロボ感あるなぁ。

 古いのが鳥居の奥側にあるのだけれど、そちらは狛犬と獅子の組み合わせになっている。

こう撮ると、ちょっと現実の萩原神社とは違う雰囲気になっちゃったかもな。

 天神様となると牛は欠かせない。最初の牛は、そもそもお祖父様が奉納したものが戦時中金属の供出でなくなったところ、お孫さんが改めて奉納したものなのだそうな。牛の台座の正面にある銘板にそのへんの経緯が記されている。

 下の石像のほうも奉納されたものらしいのだけれど、経緯その他はちょいとよくわからない。石であれば供出させられることもなかっただろうけれど。こういうふうに並んでいるところ、なんとなくそこはかとなく面白い。

 関係ないが、上の写真右に見える「思い出の背比べ」、なるほど受験生のような若い世代から訪れる神社にはふさわしいものなのかもしれない。近年では「お受験」で受験生の低年齢化も進んだことだし。でも、ただ背丈を測り写真を撮るだけというのはもったいなくないか。今の時代なら、たとえばスマホから撮影した写真や音声、短文などをネット経由で神社のデータベースに納められるようにしておいて、再度訪れたときこの碑にスマホをかざすと前回、前々回訪れたときの写真その他がスマホに呼び出されるようにしておく、なんてな工夫があるとリピータをちょびっとくらいは増やす工夫になったりしやしないかしら。ダメかなぁ。う~ん。

 写真ではスケールがわからないけれど、旧本殿、かなり小さい。階段や社殿の扉など、普通のヒトが利用できるサイズではない。元々は神仏習合のお寺の中の社みたいな具合だったのだろう。堺市内にはお寺におまけ的に社がついていたヤツ、廃仏毀釈のお陰様を持ちまして神社に鞍替えしちゃったってケース、結構あるみたいだ。

「原寺」は「萩原寺」のこと。萩原寺は萩原神社の別当*2だったはず。そのへんの細かい話はすっかり忘れてしまったが、萩原寺は「大聖寺」と呼ばれることもある条坊も多い結構デカい寺だったらしい。そのへん、エントリを書くに当たって確認しようと思ったのだけれど、萩原神社のオフィシャルサイトにもウィキpにも記述がない。うーん。神社本庁系歴史的廃仏毀釈ですかね、というのは下衆の勘繰りm(_ _)m。

 恵比寿神社前。これも以前一度取り上げたことがあるような。……あ、未復旧エントリかぁ。うーん。「のた魚」*3を知らぬではヒトとして生まれた甲斐がないので、ご存知ない方は緊急即刻ググっておきませう。

 しかしなぁ、以前取り上げた菅原神社も*4陶荒田神社も*5道真公と恵比寿様を共々祀っているとはどういうことか。堺と云えば商売の街、読み書き算盤(天神様)に商売繁盛(恵比寿様)の組み合わせが神社としてはマーケティング・リサーチ的に正しい戦略なのだ、というわけでもないだろう。この萩原天神界隈や陶荒田神社あたりは、江戸期あたりなら商業地帯というよりは農業地帯、新田開発も行われた一帯だったと見て良さそうだもんね。そこいらへん、どうなんだろう。面倒臭いときには《古来より日本人は学問を愛しており》云々デンデン♪とかテケトーなことを云っておけばよろしいかもしれないけれど、ホントのところ、少なくとも今日の本邦の為体ぶり、口が裂けてもそうは申せませんわなぁ。

 詳細はさっぱりわからないけれど、そのへんは氏子でもない人間が気にしても仕方ない。

 それにしても御神木の伐採とはなぁ。

 

 

堺歴史読本 (別冊歴史読本 5)

堺歴史読本 (別冊歴史読本 5)

 

 

*1: 「萩原神社」と呼ぶのが正しいのかもしれないが、身近で「萩原神社」と呼ばれているのを耳にしたことがない。略称としても「ハギテン」とするのが地元では普通ぢゃないかなぁ。

*2:cf. google:別当寺

*3:cf. google:のた魚

*4:cf. 「本日の埋草/菅原神社、石田梅岩坐像」(【復旧時註】未復旧)。

*5:cf. 「ここのところのうだうだ/バラード的」(【復旧時註】未復旧)をブログ内検索して、年末に訪った折に書いたエントリを公開していなかったことに気づく。あらま。追々、書き直してあげておくか。