本日の埋草/裏切りと殺戮について

2010年9月頃、東京海洋大学越中島キャンパス

敵をおそれることはない
せいぜい君を殺すだけだ
友達をおそれることはない
せいぜい君を裏切るだけだ
無関心な連中をおそれよ
殺しもしない、裏切りもしない
だがかれらの沈黙の同意あればこそ
裏切りと殺戮はこの地上にある。

 安東次男*1『詩 その沈黙と饒舌』(イザラ書房)で引かれていた、初めて目にするヤセンスキー*2の作品。3年間連載した時評の終わり近くに、当時(1968年)の若者が口ずさんでいるものとして紹介されているのだけれど、表題までは記されていない。訳者もわからない。

 今でも名のあるだれかが適当なタイミングで紹介すれば、ちょっと流行りそうな気配のあるきれいなまとまりを持った一篇である。安東は《孤独の底にとどいた人間でなければ、こういう発想は持ちうるものではあるまい》という。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。安東ほどの見巧者が云う以上、とりあえずうべなっておくのが正しい受け止め方ということになるのだろうか。

 

 70億を超えるヒトが生きている地球上で、というか68年であってさえ35億かそこいらは越えていたはずの地球上であっても同じようなものではないかと思うのだが、その地球上にかぎったとしても、私たちの関心がその世界すべてに及ぶことは金輪際あり得ない。そういうことは数千万、数百万の人口規模でも、たぶん大した違いはないだろう。ダンバー数*3を超えればもうダメということだってありそうだ。とすればつまり、裏切りと殺戮は、世界であれ国内であれ地方であれ、地上に遍在することを免れないということだ。

 そのような具合に世界は出来上がっているのだろうと感じさせる出来事にも、私たちの世界はふんだんに恵まれている\(^o^)/。否応なしに件の言葉に刻まれた「発想」に巻き込まれたところで暮らさざるを得ないわけだ。局所でせいぜい賢明に振る舞う以外にないとして、そのとき局所でどのような「孤独の底」に触れているという自覚を持ち得るか。

 そのあたりが大いに怪しい今日この頃なのだな。うー。

 

【復旧時註】オリジナルの公開日の正確なところが確認できなかった。現在の公開日表記は、だいたいそのへんではなかったかという程度のものになっている。

 

 タイトル的には出典っぽいけれど、邦訳の出版年が新しい。原典の読まれたのが68年ということなのかな。

【付記】

 machida77さんから以下のようなご教示を賜ったm(_ _)m。

本日の埋草/裏切りと殺戮について - 日々の与太

1956年発行のヤセンスキー選集第1巻に該当の文が登場する『無関心な人々の共謀』が入っているので、1968年頃読まれたのはそちらの可能性が。

2019/03/19 14:04

 う、調べ方がめちゃくちゃ甘かったわ\(^o^)/

詩―その沈黙と雄弁 (1969年)

詩―その沈黙と雄弁 (1969年)