本日の夏時間/Summertime - Maria Callas
云わずと知れたマリア・カラス様。どんな方がアップなさったのか、再生画面中、「Summertime」のスペルが間違ってますがぁ\(^o^)/。
「サマータイム」の歌詞は、まず疑いなく子守唄である*1と普通は考える。で、子守唄であるのだから、静かに穏やかにプレイするのが当然だというあたりが、オーソドクスな捉え方みたいになっている。でも、それは捉え方の一つではあっても揺るぎない唯一のものだとは到底云えない。オペラ版の「サマータイム」に耳を澄ませてみれば、それは自明のことのように思える。
そもそも、本作はオペラの中の作品なのであって、実際演じられている場の発声法、歌手の声量やオーケストラの音量を考えてみれば、「So hush little baby/Don't you cry」との歌詞とは裏腹に、静かに眠っていた赤ん坊が目を覚まして泣き出すことがあったって全然おかしくないものなのである。だから、仮に作者本人の意図を考慮した解釈を考えるなら、現実生活の中で子守唄を歌うようなのを良しとする態度はずいぶん奇妙なものだといえばいえてしまう。
実際のところ、こうした事情は子守唄のみに当てはまるものではない。ラブソングであっても事情は同じ、恋愛経験なき者歌うべからずというような見方はむしろヒトの想像力を侮った見方なんぢゃないか。そういう具合なのだからして、聴衆に向けて差し出されるものは子守や恋慕の情そのものではなく、子守や恋愛の演技であり擬態なのだと見なければならない。でなければ、聴衆に向かって子守唄を歌う行為は、聴衆を眠らせるための行為だということになってしまう。もちろん、何か特殊な実験的試みとしてそういうことは行われてもおかしくはないが、それが一般的でないことは自明だろう。だからして、作品としての子守唄は、実生活における子守唄として書かれたものでもなければ、歌われるべきものでもないのだ。
ひどく当たり前のことなのでアレなのだけれど、案外考えられていないことなのかもしれないと思うことがちょくちょくある。だから、これは一度言葉にしておいたほうがいいような気がする。一方で、言葉にされないだけで、実際的にはそこいらへんは暗黙の内に考えられていると感じられることもある。だから、言葉にするのはただの野暮なのかもしれないと思いもするのだけれど。さてどんなものだろうか。やっぱり野暮かな。う~ん。
このへんと「サマータイム」の「オーソドクスな解釈」云々って結構重なってくる考えるべきところが間違いなくあるんだけれど、考えるのがタルい暑さだし、暑くなくったって面倒臭くなってきたのでこれを省く。
SMJ (2009-12-23)
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カラスモノの「サマータイム」収録盤、アマゾンではなかなか見つからない。代わりにというアレでもないけれど、まさかアーノンクールがこういう作品でも指揮していたとは知らなかったというわけで、まぁ。だって、アーノンクールといえば古楽と相場は決まっているぢゃないですか。
*1:cf. Summertime lyrics by George Gershwin | LyricsMode.com。歌詞にユーザが註釈をつけてゆくCMS風のシステムはおもしろい。実際についている註釈のほとんどはありがたみのないものだし、そもそも歌詞はガーシュインが書いたものではないんだから、ページタイトルはどうにかすべきってなもんなのだけれど。メンバーを限定した読書会やその前準備の意見交換なんかに使えるとヨサゲぢゃないかしらね。