本日の備忘録/最晩年のマーク・トウェイン

《1909年にトーマス・エジソン*1が撮影した、アメリカの大作家マーク・トウェイン*2の現存する唯一のフィルム》ということでφ(..)メモメモ*3

 1909年はトウェイン死の前年ということになる。トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンの作家ではもはやなく、偏屈爺ぃと化していた最晩年の映像だ。そう思って眺めると、如何にも偏屈爺ぃというふうに見えて来るような気がする。立っているだけですでに充分偏屈爺ぃだ。

 こういう姿は明日の我が身というふうに見ておくべきなんだろう。そう思いながら偏屈爺ぃとして生きる覚悟みたいなものをぼんやりと妄想したりする。今日の我が身とあちらのそもそもの社会的身分なんだか立場なんだかが違いすぎるぢゃないかとかそういう煩い話はうっちゃっておくとしてだけれども\(^o^)/。

 

 tweetのリンク先にも同じ映像があるけれど、埋め込みはできないみたいだし解説の類もあがっていない。というわけで、tweetを埋め込んだ。

 

ハックルベリー・フィンの冒けん

ハックルベリー・フィンの冒けん

 

 柴田元幸訳。柴田訳では読んだことがないのだけれど、何となく良さそうぢゃないか^^;。懐に春が来たらば、こちらで読み直してみますか。

 トム・ソーヤーも悪くないが、一作選ぶとなるとハックルベリー・フィン。トムくんは、柴田訳がすでに文庫にもKindleにもなっている。こういう話はジーパンの尻ポケットに突っ込んで携行しどこででも読むというのがいい。ハックルベリー・フィンもさっさと文庫化されるべきだと思う。

 ハックルベリー・フィン、新しい訳が21世紀になっても出版されているのだから、まだまだ私たちの社会の未来が衰運の一途をたどると決まったわけでもないか、と思ってみたりする。