本日のSong/学校の作文よ、にげよけれども、春よ、来い

 雑な話を一つ。

 近所の通りを通学路としている高校生だか中学生だかの半ばがなるような声のおかげで、ひさしぶりに思い出す歌。

 ただ、どうも僕はこの歌が苦手だ。ユーミンの作品全般には特段の好き嫌いはない。僕ら爺ぃ世代にとっては、歌というよりも環境として存在していたようなものだ。中には、作品の善し悪しとは関係なく、個人的な愛着を覚えるものだってある。でも、これには違和感を覚えてしまう。端的にいえば歌詞の口語と文語の混淆あたり*1。ただし、口語の中に文語が唐突に混じっているのがダメだというのとはちょっと違う。口語と文語のチャンポンといえば、日本の近現代詩にいくつも先行例を見出すことができる。同じように違和感を覚えるかといえば、そんなことはなくて、むしろそれをどういう具合でだか、面白いものとして受け止めていたりする。

 

 西脇順三郎の「紙芝居 Shylockiade」に次のような一節がある。

我が言語はドーリアンの語でもないアルタイの言
である、そのまたスタイルは文語体と口語体と
を混じたトリカブトの毒草の如きものである。
学校の作文よ、にげよけれども女はこの毒草を
猪の如く好むことは永遠の習慣である。

西脇順三郎「紙芝居 Shylockiade」部分*2

 「文語体と口語体とを/混じた」言葉遣いは、「学校の作文」、とどのつまりは穏当な内容を整った形で語るような言語表現とは相容れないものだという西脇の詩的宣言みたいなものなのかな。実際、とくに初期の西脇にも口語体に文語体がミックスされた言葉遣いはちょくちょくある。が、それはさておき。

 「春よ、来い」は、NHKの朝ドラの主題歌であったわけだけれど*3、そのせいであるのかどうか、表現は洗練されたものになっているにせよ、主題的に見た場合、どちらかといえば定型的な「学校の作文」に近しいものに見えなくもない。なにしろ学校の教科書に掲載されるくらいなのだから*4、そういう整理も間違ったものとばかりはいえないだろう。「文語体と口語体と/を混じたトリカブトの毒草」で「学校の作文」的内容を歌うにはいささか無理があった、少なくとも自分にはそういうふう感じられたんだと思う。

 

 近現代の詩に目を向けると、西脇に限らず、文語体と口語体の混淆って結構ある。たとえば、ときに「口語自由詩」の完成者みたいなことも云われる萩原朔太郎『月に吠える』なんかはその典型ぢゃないかしら。口語体だけとかほとんど文語体とかで書かれているケースもあるけれど、それはとりあえず措いておくとして、「春よ、来い」のようにちょろっとだけ文語体が混じっているヤツを見てみると、たしかに「学校の作文」は逃げちゃったほうがいいかもなぁというふうなのが目につく。

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつき上旬はじめのある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路よつつじを曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ、
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者くせものはいつさんにすべつてゆく。

「殺人事件」(萩原朔太郎『月に吠える』青空文庫)

 口語の中に、はっきりくっきり文語が用いられているのは1箇所ばかり(「はやひとり探偵はうれひをかんず。」)。「春よ来い」よりずっと少ないんだけれど、唐突さも違和感もないというか、あるいはむしろ違和感がそのまま詩の基調に寄り添うようなものになっているとも見える。『月に吠える』には、こういう微妙なというか絶妙なというか、まいっちゃう以外に対処のしようのない文語の混淆例が多く見られる*5。口語に取り混ぜられた文語は、殊更の言い回しとしてちょっとした瘴気を放っているようで、そこがどうも愛欲絡みと見える「殺人事件」の面白味を増しているように感じられる。つまり、「学校の作文」からは嫌われそうなものだからこそ、文語の混入が生きているように僕には思える。

 最近はあまり見かけなくなっちゃったけれど、ひと頃流行していた新仮名遣いを基調にした文章表現中に旧仮名遣いを交へるやうな書き方つてあつたぢやないですか。アレに近しい感覚が働いてゐると云へばいいのかなあ。あれも、シリアスな内容を語るにはあんまり適さないでしょ? そういう感じ。

 

 対するに「春よ、来い」は、内容そのものは学校の作文的というか、至ってオーソドクスな内容であるのに口語体に文語体を交える形が採られているわけで、そこいらへんに、僕の感じる違和感がある(んぢゃないかなぁ)。もちろん、そういう選択の背景みたいなものは自分なりに想像できるような気がするけれど*6

 しかしながら、少なくとも日本語の場合、口語と文語の混淆は、「殺人事件」で確認したように、ある種の奇妙な面白味を伴ってしまって、そこいらへんが「春よ、来い」のオーソドクスな、つまりは学校の作文的な内容を裏切ってしまうように感じられる、と思うんだがなぁ。ダメですかねぇ、学校の作文どころか文科省検定国語教科書に掲載されちゃっているんだもんなぁ。ダメですかねぇ、うーん。

 

 自分の感じる違和感周辺を未整理なままうだうだ書いてみるとそんな感じになるのかなぁ。まぁ、それにしても、そういうあれこれはさておき、さっさとキッパリ春にならんもんですかね。

 

THE DANCING SUN

THE DANCING SUN

  • アーティスト:松任谷由実
  • 発売日: 2013/10/02
  • メディア: CD
 

 火事で焼いちゃって以降、聞き返す折を持たないままなのだけれど、「春よ、来い」、シングルとは多少演奏が異なっていたような記憶がある。歌の後、インストが続いているというような。

 

Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)

Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)

 

 「紙芝居 Shylockiade」は、『Ambarvalia』の「LE MONDE MODERNE」にある。たぶん、選詩集の類でもたいてい収録されているんぢゃないかしら。全部たしかめたわけぢゃないけれど。

 

月に吠える

月に吠える

 

 萩原朔太郎『月に吠える』は青空文庫で読める。したがってまたアマゾンのKindle版が無料で読める。とはいえ、リンク先からは紙の本にもたどりつける。詩を読むには、まだ紙の、縦書きの本のほうがふさわしいように思うアタシはどうせ老頭児、か。

 僕と同世代の方でも、朔太郎は詩集で読んだことがないというケース、多いみたい。朔太郎も教科書級の詩人さんではあるけれど、教科書を超えて変態なので読んで損はないですぜぃ。

 

*1: google:春よ、来い 歌詞

*2:google:西脇順三郎 紙芝居 Shylockiade]。ただし、全篇が読めるページは、パッと見、見当たらないみたい。うーん。まだ著作権保護期間内ではあるから、致し方なしか。

*3: というか主題歌として作られたのかな?

*4: 「春よ、来い (松任谷由実の曲)」(Wikipedia)

*5: 清岡卓行にそのへんをどういうふうにだか論じた文章があるらしいのだけれど、不勉強で未確認。m(_ _)m

*6: 荒井由実松任谷由実作品では、初期から広大な時空に本来隔てられているはずの2人の出会いや呼び交わし合いみたいなネタを扱うものが結構ある。たとえば、「朝陽の中で微笑んで」だとか「経る時」だとか「REINCARNATION」だとかその他いろいろだとかだ。そのへん、時代を超えた呼び交わし合いに見合った形として、口語体に文語体が混じった言葉遣いが求められたということがあってもおかしくはないだろう。時空を超えて呼び交わす言葉と言葉を表現するとなると、多言語的な語りはむしろ必須のように思えなくもない。同じ日本語内の、口語体/文語体の混淆では、まだ不足があるくらいのものだと言い募ることだってできちゃうかも。言葉だけの工夫で済むようにも見えるので、手を出してみたくもなるというところかもしれない。/ 一方、音楽的に同じようなことをしようとすれば、今日的なビートの利いた音楽に、古謡や雅楽、あるいは能の謡を組み合わせたような曲が構想可能かもしれないが、それでは現代音楽みたいなもの、たとえば、「Takemitsu: November Steps」(Saito Kinen Orchestra - Topic、YouTube)みたいなのになっちゃうかも。どうしてそうなるかは、「ノヴェンバー・ステップス」(Wikipedia)でも読んでテケトーに想像してくらさいましな。/いずれにしても、ポップスという歴史的にも地理的にも限られた音楽性の中に留めることは、技術的な水準でほとんど不可能だと思える。