メシアン

 オリビエ・メシアン(Olivier Messiaen)『時の終わりのための四重奏曲(Quatuor pour la Fin du Temps)』。

 午前中読んでいた沼野雄司『現代音楽史』(中公新書)で、ガチョ~ン\(^o^)/

 また、占領下の抵抗という文脈で語られる曲としては、捕虜収容所の中で初演された、オリヴィエ・メシアン(1908-92)の「時の終わりのための四重奏曲」(1941)がある。メシアンは、デビュー当初から明確に新古典主義に反旗を翻していた作曲家だが(新古典主義について「全面的に間違っており」「ばからしい」と述べている)、40年*1にドイツ軍が侵攻してくると国境に近いヴェルダンで捕らえられ、7ヶ月間*2、捕虜として収監された。

 極寒の洗面所で書き継がれた「四重奏曲」は、たまたま収容所にいた音楽家たちに合わせた奇妙な編成(クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ)を持ち、貧弱な楽器で初演が行われたものの(「チェロは三本しか弦がなかった」)、豪雪の中で五千人ほどの捕虜たちが静かに耳を傾けた……。作曲者自身によって語られた初演譚は、この曲に特別のオーラを与えてきた。しかし近年のイヴ・バルメールらによる研究は、既に捕虜になった時点で曲の半分近くは完成しており、初演はきちんとした楽器を使って二百~三百名程度の聴衆の前でなされ、さらには収容所内の作曲環境や音楽環境がきわめて良好だったことを明らかにしている。

 もちろんこのことで曲の価値が減じるわけではないが、戦争のような社会変動の中では、音楽にさまざまな物語が付随しやすいことを示すエピソードだろう。

沼野雄司『現代音楽史』(中公新書、p.102)

 僕の場合、そもそもが聞きかじりに過ぎない話ではあるけれど、まるっきりのてっきり《付随した物語》を事実とばかり信じ込んでおったぞ\(^o^)/

 ことのついでにウィキpで確かめてみると……。

収容所は捕虜の急増により環境が悪化し、食糧不足による栄養失調や寒さのため、多くの者が病気にかかった。劣悪な環境ではあったが娯楽には比較的寛容で、収容所内には図書館が設置され、オーケストラやジャズ・バンドも存在していた。第27兵舎は約400席の劇場として改築され、コンサート、バラエティーショー、映画上映や捕虜たちによる講義が行われた。音楽家は捕虜の中でも比較的優遇されており、メシアンが有名な音楽家であることが知られると捕虜の義務を免除され、作曲に集中できるよう別の棟に移された。当初メシアンが作曲していたのは三重奏曲であったが、アンリ・アコカと同じ寝棚であったヴァイオリン奏者ジャン・ル・ブレールが加わり四重奏曲となった。収容所にはチェロやヴァイオリンはいくつかあり、アコカは自分のクラリネットを持っていたが、ピアノはなかったため、四重奏曲のリハーサルは行えなかった。1940年11月にピアノが到着すると、彼らには1日4時間の練習時間が与えられた。

「世の終わりのための四重奏曲――作曲の経緯」(Wikipedia)

初演は1941年1月15日午後6時、第27兵舎でジャン・ル・ブレール(ヴァイオリン)、アンリ・アコカ(クラリネット)、エティエンヌ・パスキエ(チェロ)、オリヴィエ・メシアン(ピアノ)によって行われた。メシアンはこの初演について伝説的な言葉を残しているが、これにはいくつか誇張があったと考えられている。一説には数千人の捕虜を前に演奏されたと言われているが、実際には初演は閉鎖されたバラックの中で行われ、せいぜい400人程度しか入らなかった。極寒の収容所内でチェロの弦は3本しかなかったと語られているが、これは作り話であり、パスキエは間違いなく弦は4本あったと主張している。メシアンは後にこの初演のことを「私の作品がこれほどの集中と理解をもって聴かれたことはなかった」と語っている。

初演の後、4人の名声は確かなものとなったが、彼らの処遇には差があった。初演から1か月も経たない1941年2月にメシアンとパスキエは収容所から解放された。一方でアコカとル・ブーレールは収容所に捕らえられたままだった。アコカは解放される2人とともに列車に乗り込もうとしたところ、ユダヤ人であることを理由に連れ戻された。その後、アコカは温暖なアルジェリア出身であることが考慮され、一時的にブルターニュ地方のディナンに移送される。そして1941年4月に再び第8A捕虜収容所に送り返される途中、ヨンヌ県のサン・ジュリアン・デュ・ソー付近で列車から飛び降り脱走した。アコカは怪我を負い気を失ったが、手当てをした医師の協力で自由地域に到着することができた。ル・ブレールは1941年末ごろ、ブリュル太尉が作成した偽の書類によって解放された。他の3人は音楽家としての道を続けたが、ル・ブレールはヴァイオリン奏者の道を諦め、ジャン・ラニエという名前で俳優に転身する。またメシアンら3人も年月が経つにつれ徐々に疎遠になり、初演のメンバーが再び集まることはなかった。収容所のバラックは取り壊され、現在は跡地に記念碑が残るのみである。2008年はメシアン生誕100年にあたり、収容所跡でこの曲の再演が行われた。

「世の終わりのための四重奏曲――初演」(Wikipedia)、脚註省略

 収容所内で確かなものになる体の名声ってなんじゃラホイという気がしないでもないけれど、そんなことより、《メシアンは後にこの初演のことを「私の作品がこれほどの集中と理解をもって聴かれたことはなかった」と語っている》とは、メシアン爺さん、まったくもっていい面の皮であるわ\(^o^)/。

 

*1:【引用者註】原文漢数字。

*2:【引用者註】原文漢数字。