本日の備忘録/反5W1H

 相変わらず行きつ戻りつ『久保田万太郎全句集』をボソボソ。

 で、びっくりしたことを一つ。

からかみの引く手のひくし春隣

春隣白味噌汁のうまきかな

「春隣」が二つ続いて三句目。

だれかどこかで何かさゝやけり春隣

 寝起き、寝床でボンヤリと周囲の音に耳を傾けていると、だれのものとも知れない、どんな話なのか見当もつかないヒトのボソボソ声が聞こえるというばかり。そのへんのボンヤリ具合は五・七・五を外したトボけた調子にも重なるようでもある。そういう雰囲気が、寒さの解けかけた時分にふさわしいとかなんとかいった具合に読めば充分なんぢゃないか。

 と書いちゃうとずいぶん軽い扱いみたいになっちゃうけれど、でもこの、何というか反5W1Hだか非5W1Hだかとでも云えそうな言葉――かろうじて「春隣」が「When」を一応示しているとはいえ、季語としては非常に漠然とした時候を示すに過ぎない――で、そういう、それなりに5W1Hのいくつかがはっきりとわかるような想像を喚起できちゃうというのは、軽いには違いないけれど言葉の遣い方の小洒落た具合に、さすが万太郎っ、と唸るくらいのことがあったってバチは当たらないと思う。

 というあたりはさておき、この句を目にして声を挙げそうになっちゃった。きっともう数多あまたの指摘があったに違いなさそうだけれど、西脇順三郎の「天気」を思い起こさせる句だからだ。

(覆された寶石)のやうな朝
何人か戸口に誰かとさゝやく
それは神の生誕の日

 謂わずと知れた『Ambarvalia』「Le Monde Ancien*1」は「ギリシア的抒情詩」、冒頭の一篇。目にすれば大概の読者は2行目と《だれかどこかで何かさゝやけり》の類似に気づくだろう。今さらのことなんだろうけれど、知らなかったんだから、個人的にはびっくりするしかない。あらまっ(゚∀゚)!

 

蛇足

 「天気」について何か語るとなると、キーツJohn Keats)「エンディミオン(Endymion)」と、チョーサー(Geoffrey Chaucer)の『カンタベリー物語(The Canterbury Tales)』に附されたバーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones)による挿絵に触れることになっている。冒頭「(覆された寶石)」の「()」はキーツからの引用であることを示しているとか、2行目が挿絵から触発されたものだとかいう話である。どちらも詩人自身の言によるところ、僕なんぞが異を唱えるような余地はない。けれど、たとえば「エンディミオン」からの引用云々は説明として中途半端ぢゃないかと思うし、挿絵に触発されたというのは、あくまで作品の成立事情であって読者に必須の知識であるかどうかは大いに怪しいんぢゃないか。

 たとえば、キーツのほう、原詩の当該部分は以下のようになっている。

Out-sparkling sudden like an upturn'd gem*2

 引用であることを示すためだけに用いられたのであれば、なぜ「(覆された寶石)のやうな」の「ような(like)」が括弧内から追い出されなければならなかったのかがわかんない。そもそも引用引喩を多用する西脇作品に、その都度そのことを示す「()」がご登場あそばしていらしたかしらという疑問も湧いてくる。

 結局のところ、「覆された寶石」が喚起する「Out-sparkling sudden」な具合を書かずして際立たせる効果が重要だということなんぢゃないか。キーツはわざわざ輝き具合を説明しているけれど、「覆された宝石」の一言があればそんなところまでいちいち言葉にするには及ばない。キーツは野暮なヤツ、ワンランク降格!、ってな具合。

エンディミオン」に登場するグラコウスのことを考えると*3、3行目の「それは神の生誕の日」に通じていることを感じて、想起されるイメージの広がりが増すか輪郭をくっきりしたもにするくらいのことはあるかもしれない。でも、「天気」がそのことを具体的な主題にしているわけでもないのだし、「()」の効果を味わうことが出来ればそれで充分というところぢゃないか。

 挿絵の件も同じような具合かなぁ。これも詩人自身のどこで読んだのだかもう記憶はあやふやなのだけれど、自註か何かにあった話だし、『カンタベリー物語』は西脇も訳しているしで、だからまず間違った話ではないのだけれど、挿絵の附された「尼僧院長の物語(The Nun's Priest's Tale)」の内容――マリアへの信心物語――は、「Le Monde Ancien」、「ギリシア的抒情詩」に似合うものではないだろう。かかわりがあるとすれば、マリア信仰の篤い少年が《清浄な童心の宝石、このエメラルド、輝かしい殉教のルビー》(ジェフリー・チョーサー、西脇訳『カンタベリ物語』)という宝石の喩で語られていることか。そのへん、「(覆された寶石)」からの連想で挿絵とセットで思い起こされたってくらいのことはあるかもしれない。でも、挿絵に宝石のように輝く少年が出て来るわけではないみたい*4

 挿絵を見ていると*5、おそらくは行方不明の息子を探すお袋さんが家々を尋ね歩く場面ではないかと思うのだけれど、そちらのアレコレはさておき、奥の寝台に横たわっている人間が描かれているのが目に止まる。たぶん、挿絵に登場する人物は複数あるし「尼僧院長~」に附された挿絵も複数あるのだけれど、「天気」第2行目を詩人に生み出させたのはこの人物なんぢゃないか。この人物に成り換わってみると、《春隣》と同様のシチュエーションが思い起こされるぢゃないか。《春隣》の句を見てしまうとそういうふうにしか思えなくなって来ちゃう。

 というか《春隣》は、この2行目だって5W1Hをことさらにボカした表現を採っていることに改めて気づかせてくれるものになっている、くらいのことは云ってみたいところ。このボケ味がよく効いて1、3行の鮮やかさが際立っているということ自体のほうが挿絵に典拠を求めてなにがしかの効果を考えるよりもチャーミングな読み方ぢゃないか。

 と、そんなこんなで、個人的にはいっそ《春隣》の句こそがこの2行目に影響を与えたんだぞとか、こちらこそが典拠であるに違いないのだとか云い募ってみたいところ。しかしまぁ、『Ambarvalia』が1933年の刊に対して、《春隣》のほうは久保田万太郎最晩年(没年は1963年)。これはさすがに世間様には通用しない話だわね\(^o^)/。

 

立ち読み課題図書、その他

 アマゾンを当たってみた限りでは、まとまった入手しやすい句集は見当たらない。久保田万太郎は1963年に亡くなっているから、ひょっとしたらばと青空文庫はどうかと思ったのだが、「作家別作品リスト:久保田 万太郎」(青空文庫)を見ても残念ながら彼の句集類は収められていない。

 上の全句集はKindle版のみ。Kindle版だと3222円という値段は高く感じられちゃうところか。僕が読んでいるのは中央公論社版。潰れる寸前の天牛堺書店で箱なしのものを500円少々で落首。アマゾンでは箱付きだけれど、その10倍ほどの値段でマケプレものがある

 

 『カンタベリー物語』西脇訳は、詩文を散文に改めた訳になっている。訳文も例によって独特で、たとえば《その町のはずれに、キリスト教徒の小学校があったが、そこで大勢のキリスト教徒の子供たちが年々規定の学課を学んでいた。尋常科で普通やるような唱歌と読方を教わっ た。》*6みたいな具合^^;。残念ながら挿絵はついていない\(^o^)/。

 紙の版はすでにマケプレものしかアマゾンにはない。値段からするとちょっと状態に不安がありそう。というわけで、Kindle版ページにリンクしておいた。

 

*1: 古代世界の意。

*2: 34. Endymion. Keats, John. 1884. The Poetical Works of John Keatsからコピペ。

*3:cf. 「グラウコス」(Wikipedia)のトップ「海神のグラウコス」。

*4: 「西脇順三郎の『天気』」(Barbaroi!)に「尼僧院長の物語」の散文訳と挿絵が紹介されている。引かれる散文訳は西脇訳ではない。挿絵のほうもバーン=ジョーンズのものとは明言されていない。けれど、バーン=ジョーンズの挿絵も他に見当たらないみたいなので、とりあえずこちらさんの挿絵を頭に浮かべながらこれを書いている。

*5: 前の脚註にあげたページの最初の挿絵。

*6:西脇訳『カンタベリ物語(下)』(ちくま文庫Kindle の位置No.1079-1080. 筑摩書房. Kindle版。