本日の備忘録/死者たちの群がるメタバース、あるいはまたまた降霊術2.0

 メタバース一般についてはさておき、ここで気になったのはヴィデオ40秒目少々過ぎあたりからの話。毎度おなじみの降霊術2.0ネタである。亡くなった娘をメタバース内の人物として再生するという話。《バーチャルな人格が3Dで完全に再現されAIで自動的に動くように》なるというのは、しかしどうなのだろう。「再現」に要する人格の個別を充分に確保できるのかどうか、大いに疑わしいのではないか。

 子どもの人格を再生するに足るデータなどあるのだろうか。仮にあらゆる言動の録音録画が残っていたとしても、生まれてたかだか10年かそこいらで子どもの潜在的な才能なんかを含むアレヤコレヤが、すべてデータの採れるような形でそこに表出され切ることなどあり得ないだろう。シミュレーションといってもずいぶん底の浅いものにしかならないのではないか。足りないところは、平均的な子どもの人格データに多少の個別データを埋め合わせして、テケトーなところでその子どもの人格が再現されたことにするといった程度を超えないのではないか。AIに学習されるデータが子どもの個別性を確保できるだけの質や量がどんなものでどのくらい必要なのか、全然わかんないけれど\(^o^)/、これから先3年から5年でそういうことが明らかになり蓄積されAIが学習できるだけのものになるのか。実際には、再現された子どもの個別性はメタバース内での生活が長くなればなるほど、平均化されどの子どもも見かけ以外は似たような性格や知的水準を獲得し、生きている現実のヒトとのコミュニケーションも紋切り型の範囲内に収まってしまうことになりはしないか。それで、親御さんは納得するかしら。仮に納得し、再現された子どもに愛着を感じたとして、その愛着はその子どもが健康に育ったときに感じるものと同じだろうか。生きているペットに対する愛情というよりも、アイボのような愛玩ロボットに向けられた愛情に似た感情になっているかもしれない。もちろん、それでヒトの慰めになるのであれば、悪いとは云えないかもしれないけれど。

 学習されるべきデータが少なければ、さらに「アトム問題」(で良かったっけ?)も生じるだろう。天馬博士は、亡くした自分の息子の似姿として鉄腕アトムを作ったのだが、ロボットであるアトムはヒトの子どもとは異なり成長しない。そのことに失望し怒り、アトムをサーカスに売り飛ばしてしまう。それと同じように、現実の子どものようには成長しない再現された子ども、あるいは成長すればするほど(データ不足のために)他の子どもと似たりよったりになってゆく子どもに失望し、メタバース内に子どもたちは見捨てられ放置されるというような事態が生じないだろうか。メタバース内にはそのあたりを処理するサーカスでも作りますか? もちろん、コンピュータ上のシミュレーションが放置されたからといって大した問題ではないといえばないかもしれない。しかし、そういう放置が両親にもたらす心理的な後ろめたさは案外大きなものになるかもしれない。あるいは、仮にAIの性能が充分に高くヒトの心理をも充分に学習再生できるとすれば、放置された子どもがメタバース内でグレちゃうとか、見捨てられた者同士がつるんで半グレ集団を作ったりして……といった事態も生じ得るのではないか。何なら「放置」のおかげでトラウマを負ったAIがやがて放置した両親に復讐しようとして……というようなホラー映画ネタのような事態は……さすがに生じないか\(^o^)/。

 まぁ、他にもいろいろ、生者と死者が共存するメタバースは面倒なことになりそうである。降霊術2.0まわりのアレコレはたぶんよくよく考えておいたほうがいいんぢゃないか。

 

 というようなあたりはテケトーな雑感を超えるような考察ではないけれど、それにしてもと思わずにはいられないのは、ヒトってどうしても死者を自分たちの目の前に召喚せずにはいられないものなのだなぁ、という感心というか呆れというか、なんともいえない気分になっちゃうな。そういう心理がヒト普遍なものであるからこそ、降霊術の類は大昔からそのインチキ臭さにもかかわらず滅びることがないのですね。うーん。

 その他、関連記事は、降霊術2.0 の検索結果あたりからどうぞ。

 

ふろく

 結局使わなかったネタなど。

 死者をメタバースで再生するというアイディアは、私たちが実はコンピュータ内のシミュレーションなのかどうかという問題と重ねて見られるものだ。たとえば、私たちは超高スペックなメタバース内で再生シミュレートされている死者なのである、という主張に対する完璧な反論は、たぶん結構むずかしい。

 

※ 元ヴィデオが閲覧不可になっちゃったので、再アップされたヴィデオに差し替えた(2021年12月18日午前3時5分)。

 化石そのものではなく周辺の土壌から化石のDNAが採取できるかもとか、AIで存在しうるアミノ酸だかタンパク質だかを案出するとか気になる話題に事欠かないのは、自然科学ともなると毎年のことか。

 直接関係する話題ではないのだけれど、それに現在のコンピュータ・パワーで可能なのかどうかもわかんないのだけれど、死者(生者であっても同じことだが)の遺伝系や代謝系をAI内で完全シミュレートすれば、エントリ本文で述べた隠れた才能の類に関するデータ不足を補う「再生」も可能になるのかもしれない。しかし、その場合でも、遺伝子レヴェルの分析からだけでは、子どもが亡くなった時点までに環境からどのような影響を受け何を学んだかがわからないだろう。だとすれば、やはり「再生」は中途半端であることを免れなくなる。結果として、短命に終わった子どもの「再生」よりも、たとえば瀬戸内寂聴のように比較的長寿といえる人生の中で、大量の言葉を残した者の「再生」のほうが容易く、しかも正確な「再生」が出来てしまうかもしれない。

 

 いろいろ考えているうちに思い出した1曲。これはやっぱりお盆のことがモチーフみたいなものになっているんぢゃないですかね。唐突に出て来る日本語のセリフを考えてもそうなのだけれど、ズッキーニをキュウリのデカいヤツだと受け止めてよければ、たぶん間違いないんぢゃないかな。「ズッキーニの夢(ナスの記憶)」というタイトル、ずいぶん奇妙な野菜の組み合わせとも見えるけれど、ズッキーニがキュウリの代用だと考えてよければ、これはやはり精霊馬と精霊牛のことでしょ。で、お盆みたいなものもトラディショナルな死者召喚の儀礼だといえばいえちゃうよね。

  Saya Grayについてはよく知らない。矢川俊介氏のツイートによれば「カナダ人と日本人のミックスのSSW」とのこと。うちでも2度ほど取り上げたことがある。万が一気にしていただけるようであれば、「Saya Gray」でブログ内検索してみてちょ。と、それはさておき、カナダにキュウリはないのだろうか。

 

 Saya Grayにはまだアルバムはないみたい。まとめて聴いてみたいところだけれど、現在のところコレと「SHALLOW (PPL SWIM IN SHALLOW WATER)」があるだけ。