本日の備忘録/7月8日からこのかた

 7月8日、安倍晋三元総理大臣が射殺された。支持できない政治家ではあったけれど、そのことが冥福を祈る妨げとはならない。ご冥福を祈る。

 

 読み比べる習慣をそもそも持っていないとこういうことには気づけないなぁ。

 モハメド・アリが亡くなった折のアメリカ有名処メディア電子版で似たようなのを見かけたことはある。やはりほとんど同じ見出しが並ぶ様に驚いたのだった*1。ヒトの死に際して、まず書けることというのは、そういうものなのかもしれない。

 事の直後とあっては、ことさらな陰謀論や無理な逆張りみたいなのでなければ、ユニークな見出しや驚天動地の報道内容など放り出しようもないというところか。そこいらへん、書き手の怠惰や不誠実によるわけではないというのも、つまりヒトの知性みたいなものに、硬直した機械的条件反射的反応を引き起こすのも、こうした事件の厭なところだ。とはいえ、わからないことだらけであるはずの段階で、変に詳細な記事が書かれることを想像してみれば、そういう事態よりはずっとマシであるには違いない。

 

「衆議院議員吉井英勝君提出巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問に対する答弁書」のことを思い起こす。議論の形としては似たようなものに見える。安全なのか安全でないのか。安全だという判断が多数派。しかし、結果のみ云えば安全ではなかったどころの騒ぎではなかったわけだ。

 本人が警備の軽微を善しとしていることを知っていた場合、SPなり県警なりが厳重をゴリ押しできるのかどうか。軽微を望まれてなお厳重を考えるべきだといったあたりが正論にはなるんだろうけれど、そういう主張を押し通せるかどうか。そういうことを頭に転がしながら、「奈良県警本部長が記者会見 安倍元首相銃撃事件 「警護上の問題あったこと否定できない」 <7月9日午後6時~>」(関西テレビNEWS、YouTube)を見ると、また僕が考えても仕方のないことを考えてしまったりする。

 ついでながら、「公開抗議文 衆議院議員 安倍晋三 先生へ」(全国霊感商法対策弁護士連絡会)も。こうした抗議が聞き届けられて、カルトとのつながりを絶っていれば……と考えたりもする。抗議文は、政治家が宗教団体の言いなりになることに対するものではない。つまり政治的な主義主張イデオロギーその他によるものではなく、その手の団体の怪しい商売を政治家が実質的に後押ししちゃっていることへの抗議。今回の事件は、(容疑者の供述が正しいとすれば)まさしく後押ししていることに対する恨みを動機としているように見える。カルトが政治家に重宝されるのは、金蔓になるばかりでなく人員動員にも力があるからというのが大きい。金蔓は、壺に印鑑の霊感商法その他でもって被害者である国民から巻き上げられた金に由来するものだろう。そこにいろんな怨嗟が渦巻くことになったとして、何の不思議もない。そこは動かないんぢゃないか*2

 こういう話をすると、故人に対する慎みを欠いた無礼な自業自得扱いだとかイデオロギーに囚われた状態でしかヒトの死を扱えない下衆な発想だとか見なす方もいらっしゃるみたいだけれど、それは全然当たらない。こういうことがあれば、仮に本人が軽微な警備を望んでも、今後は厳重な警備を考えるべきだし*3、国民を騙くらかして稼ぎをあげるカルトと仲良くするのは、政治家にあるまじき行為であるばかりか、そこから生じかねない恨み辛みの結果として御身の安全安心が脅かされかねないことを考えても止めたほういいというだけの話だ。事件からなにがしかの反省点を見出し、よりマシな未来を考えるという当たり前の話に過ぎない。

 

「《安倍元首相銃撃》『家を全然出たがらない子だった』『挨拶しても俯いたり、目をそらす』“計画的な犯行”で元首相を銃殺した山上徹也容疑者(41)の“正体”とは」(文春オンライン)のヘッダの写真が不思議。その場に居合わせたヒトたちには、銃声が銃声として認識されなかったということなんだろうか。いっせいに逃げ出し始めるヒトビトでパニックが生じちゃうよりもずっとマシな反応であるのかもしれないのだけれど、蟠るところ。

 それにしても、見出しの「正体」の使い方、いかにも人目を惹くためのものと見えるのがなぁ。「身元」ならば一晩もかからず割り出せるだろう。すでに逮捕されているわけだし、取り調べに対して黙秘を続けているわけでもないのだからなおのこと。仮に捕まっていないような場合でも、映像が残されていれば……というようなケースはここでも取り上げた。ただし「正体」となるとどうか。逆張り陰謀論、何かと面倒臭い方面をこよなく愛するネット民の間ならば間違いなく、うっかりするとオノラブルな界隈でも、これからしばらく「正体」を巡る議論は続いたりしそうに見えないか。

 

「安倍晋三元首相狙撃事件に関する声明文」(日本サンクチュアリ協会)、山上徹也容疑者とのつながりを全否定している。容疑者の母が世界平和統一家庭連合(旧統一協会)に入信していたことは、早い段階で家庭連合側も認めているが、サンクチュアリへの山上容疑者の入信の件は、確認が取れたかどうかわからないままの拡散。このへんにお詳しいと目される、藤倉善郎@やや日刊カルト新聞 (@SuspendedNyorai) / Twitter鈴木エイト ジャーナリスト/作家/物書き (@cult_and_fraud) / Twitterがいかにも慎重な、抑制的な姿勢で話を扱われていらしたのが、今になってなるほど、ということになるのかな。

 いわずもがなかとも思うのだけれど、パッと見のもっともらしさに僕らは実に簡単に惑わされる。そこいらへんの話がどう転んだところで、何かとんでもない影響を被るといった立場にはないのだから、惑わされることさえ烏滸がましいってなもんだと心得なきゃぁねぇ。せいぜい物語に抗うこと。とまとめるのもアレかな。ということで、そのへんも他人様の褌を借りるとすれば、斎藤 環「性急な物語化やラベリングは危険 安倍元首相の銃撃報道に精神科医が抱く違和感」(BuzzFeed)あたりか。

 

 これを以て本件の総括とするというようなわけではなくて、個人的に気になったことのとりあえずのメモ。こういうデカい事件・事故の、とくに詳細不明の段階では、僕みたいな凡庸極まる人間の語れることなど、すでに大概のヒトが書いているものと似たりよったりに決まっている。なんて書いちゃうと、メモだってそうだろうってなことになるんだろうけれど、こちらは検索の面倒を嫌ってのこと、どこかにそっくりなメモが存在していたとしても個人的な重宝のためなんだから、よろしいのです。

 

 《パッと見のもっともらしさ》のことを考えながら、何となくあれこれ頭の中で転がしているうちに思い起こした一冊。

 96年に単行本が出たのがしぶとく生き延びて、手許にあるのは文庫、2006年11月26日第12刷、第1刷は2002年。文庫化されてからだけでも、もう20年になるのかぁ。

 Kindle版も出ている。簡単に物語の罠みたいなものに引っかからないために、また読んでみますかね。

 

*1: 未復旧エントリで取り上げたのだけれど、未だサルベージ出来ていない。

*2: 統一教会から議員への金の流れは、確認されてはいないとの話あり。人員をボランティアとして使えるというのが、金以上に大きいらしい。

*3: もちろん、過剰警備で野次さえ認めないというようでは、もはや西側先進国とはいえなくなっちゃうから、あくまで身体的な警備でなきゃダメよ。