本日の備忘録/屋上とは何か
一軒の建物の屋上にコートを設けて、というのではなく、「Rooftops」、二軒の屋上をコートに見立ててテニスをプレイしちゃうというのが味噌、かな。
Social media footage shows women playing tennis across rooftops in Finale Ligure, northern Italy, Saturday, April 18, as the country's coronavirus lockdown continues.
とのこと。日本でやらかすと炎上が待ち構えているって感じになるんだろうな^^;
でも考えてみると、そもそもの話として日本国内でこれをやらかし得る場所がないような気がする。同じような高さの屋上がさほど道幅の広くはない通りを挟んで存在している場所がまず存在しない。それに、仮に存在したとしても、ボールをうっかり通りに落としても問題にならないタイミングが、たぶん日本ではレアだろう。テニスの出来そうな屋上のある建物は、日本では都市部にしか存在しないように思える。ところが都市部では、少々細い通りであっても人通りが、安心してテニスが出来るほどの間途絶えることは滅多ないんぢゃないか。外出自粛が求められる現在であっても、いつ何時ヒトが通りがかるかしれないのが我が国の現実だろう。最近は外出自粛からのリバウンドなんちゅう事態も起こっているそうぢゃないか*1。
翻って彼の地の様子はといえば……
っと、新丸子ぢゃなくてサンマルコ界隈がこうも静まり返っているくらいなのだから、アパート間の細い通りなんぞには罷り間違ってもヒトは通らない。心置きなくテニスも出来るというわけだ*2。いやしかし、
しかも昨今の新型コロナウィルス感染症の災禍の最中に、だもんね。さすが『デカメロン』を生んだお国柄、ということになるんだろうか。と書くと、そういう見方は、いささかならず紋切り型のような気がしなくもないか。
何にしてもまぁ、やる場所もなく、やったらやったで炎上騒ぎとなれば、本邦にてコイツを目撃するチャンスなんぞは一生巡って来ないんだろうな。そんなことを思うと、彼我の隔たりの大きさに今さらながら目眩がしちゃう。
ふだんはそんなことなど考えもしないのだけれど、屋上のある暮らし、あってそれが活かせる暮らしっちゅうのもなんかいいのかもなぁ、と、ほんの少しばかり思ったのでありました。ちゃん、ちゃん♫
立ち読み課題図書、その他
僕らの世代だと、もし名前を知らなくとも子どもの時分からずっと、たいがいこのヒトの音に触れ続けているはず。
大林宣彦監督の自主制作時代の作品集。『いつか見たドラキュラ』は必見かと。大林作品のごちゃごちゃがちゃがちゃした感じが奇跡的にチャーミングにまとまっている。
待望の文庫化。
現在ボソボソと『グレースランド』制作に取りかかり始めたあたりまで読んだところ。
とにかくファンを自称するヒトなら読まなきゃだめだわ。S&G以前からたとえばバート・バカラックの知遇を得ていたとか知らん話もボカスカ出て来る。よりよき作品鑑賞にどれほど有益かはさっぱりわかんないけれど、まぁ読まなきゃいけませんね。
本日の備忘録/月と土星
「occultation」は隠れること。「月に土星が隠れていた」との意なのかな、タイトル。概要欄には《Saturnus May 22 2007 reappears after occultation by the Moon》とある。
こういう映像に喚起される心の動きを正確に言葉にするのはむずかしい。出来事そのものは、起こるべくして起こっているだけのこと、「ナニゴトノ不思議ナケレド」ってヤツなんだけれど*2。というか我々が目にし得る出来事のすべては起こるべくして起こっているわけで、どう転んだって「ナニゴトノ不思議ナケレド」ってヤツなんだけれど。それでもドキドキしちゃいまさぁねぇ、こういうの。
( ゚∀゚)・∵. グハッ!!、今やそんなお値段になっておるのか。
本日の備忘録/オーストラリアにおける買い占め行動の謎、あるいはポルノ概念の拡張について
《オーストラリアでは新型コロナウイルスの感染拡大をきっかけに、トイレットペーパーのパニック買いが続いている》とのことだけれど、感染拡大とパニック買いとの間には小さからぬ隔たりがあるように思える。どうして肺炎でトイレットペーパーが必要になるのか。感染を恐れるあまり外出を極度に嫌う結果だというのであれば、トイレットロールばかりでなく食糧品の買溜めも生じているはずだ。日本でのデマがオーストラリアでも広がったといった類の話も聞かない、見ない。
アメリカでのように、ハンドサニタイザーが売れるというのはまだわからないでもない。水道水20秒の手洗いで済むところに殊更金をかけるかどうかというあたり、合理性をいくらかはみ出しているような気がしないでもないもの、とくに景気の悪い我が国から見るとなんだかなぁってなところ*1、しかしそれでも水道水によるよりもなにがしかの消毒作用が期待できそうな気がするからだ。少なくともトイレットロールの買い占めよりは納得出来る。
というわけで、オーストラリアでなぜトイレットペーパーが売り切れるのか、僕にはさっぱり見当がつかないぞ\(^o^)/。
ついでながら、20秒の手洗いについて簡単にポイントをまとめてくれているヴィデオを挙げておく。似たようなのはいくらも公開されているのだけれど*2、これを書いている時点で最新のものということで選んだ。
「Washing your hands properly takes about as long as singing "Happy Birthday" twice.」というわけで、「ハッピー・バースディ・トゥ・ユー」の歌を2度歌うと時間的に都合がいいらしい。実際に試すと20秒よりずっと長くなるような気もするが、まぁ気のせいだろう\(^o^)/
こういうのは日本のものも当然ある*3。日本モノのほうは手首の洗浄の必要を説くものが多い。洋モノはそうでもない。このあたり、どういう違いがあるんだろうか。
上の件とはとくに関係ないけれど、なんかしら面白かったツイートを一つ。
METI is still posting toilet paper porn on its website. https://t.co/OEizIznOiG pic.twitter.com/TZlojaapte
— Mulboyne (@Mulboyne) March 7, 2020
「toilet paper porn」って「トイレット・ペーパー・ポルノ」ってことだよねぇ。感動ポルノとか飯ポルノとか、ネット上では各種ポルノが満ち溢れているらしいけれど、今やトイレット・ペーパー・ポルノでございますかぁ\(^o^)/。ポルノ概念の拡張ですね(違
[Amazonブランド]Presto! Comfort トイレットペーパー 長さ2倍巻 100m x 12ロール シングル (12ロールで24ロール分)
- 発売日: 2019/09/01
- メディア: ヘルスケア&ケア用品
残念ながら2020年3月8日午前1時59分現在、在庫切れの模様なんだけれど、いやそれはさておき、アマゾン・ブランドのトイレット・ペーパーがあるとは思いもよらなかったぞ。
よくわかんないのだけれど、Amazon.co.jp、本ジャンル「トイレット・ペーパー」での検索結果、最初のページ中ほどよりちょっと下に登場*4。商品説明の類にも「トイレット・ペーパー」の文字列は登場していないし、まだカスタマーレビューもついていない。どうしてなんだかわかんないのだけれど、トイレット・ペーパーと中井正一*5の取り合わせに心打たれたので、これを挙げておく。
*1:cf. 「内閣府 景気の基調判断 6カ月連続で「悪化」(20/03/07)」(ANNnewsCH、YouTube) 。この判断の段階では新型コロナウィルスによる肺炎流行の影響はないとされている。影響は今後、ってことか。そりゃたいへん。
*2:cf. 「hand washing 20 seconds」、YouTubeでの検索結果
*4: 2020年3月8日午前2時8分現在。
*5:cf. google:中井正一
本日の備忘録/The parrots that understand probabilities
日本語情報としては、「ミヤマオウムに確率を理解する能力、統計データで意思決定 研究」(AFPBB News) あたりかな。
ミヤマオウムは他の動物と比べて頭がいいという以上に過去や未来に結構複雑な表象を持っているに違いないと思えるところが、つまり量的なアレではなくて質的にオツムの出来が違っていると思えるのがびっくりすべきポイントみたいに見える。単純に過去を思い起こし未来を思い描くという営みでさえ、かつてヒトの特権であるかのように語られたものだけれど、そこいらへんはもう充分怪しい見方になっちゃったということなのだろうか。ぼんやりと、そういう単純な条件反射的未来予測みたいなものから、確からしさを勘定に入れた判断が絡んだ予測への進化論的な変化、確かめようのない歴史を妄想してみたりする。というわけで、φ(..)メモメモ。
ウェブで最初に見かけたのはヴィデオのタイトル「The parrots that understand probabilities」だけだったから、そんなのどうやって確かめるのやら、見当がつかなかったのだけれど、実験方法もなるへそ。これなら他の動物たちでも使えそうに見える。お犬様、ねこ様あたりどうかしらね? お犬様あたりなら結構いい線行くんぢゃないかしらね。そうでもないかなぁ。う~ん。
単純な因果に加えて確率論的な予測が加わってゆく過程って、たぶん自分自身の個人史の中でも起こっていたに違いないものだ。でも、そんなもの、まぁっったく記憶にないもんなぁ。そういう変化のあった時期って、生まれたばかりではなく、それなりに成長してからなんぢゃないかというような気がするぢゃないですか、当てずっぽうだけれど。ピアジェが明らかにした、子どもの量保存の無理解みたいな有名なヤツだって、もうそんなお莫迦をしでかしていた記憶なんかないもんね\(^o^)/*1。あれだって、そんな理不尽な考え方をしていたってことくらい、たまにはうっかり思い出したって良さそうなものぢゃない?
というようなことを考えると、ヒトの子どもは今回の実験に対してどんなふうに反応するもんだろうか、ってなあたりも気になってくる。というか、確率論的な推論を、ヒトの子どもが行うかどうかなんてもうとっくにわかっていたりするんだろうか? それはそれであっておかしくない話だわね。
諸説、ありますかね。
*1:cf. google:ピアジェ 保存