築地本願寺風銭湯の妄想
隈*1 第三期歌舞伎座ができたときに、そのスーパーシンメトリーが爆発的にうけて、それが銭湯でも広く採用されていったんです。江戸時代の銭湯は生活の一部でもあったので目立たせて客寄せする必要もなかったんですが、関東大震災の前後から家庭にお
風呂 がつけられるようになって、銭湯に行くということが「ハレ」になったんです。そこから客寄せのためにスーパーシンメトリーな銭湯が出てきたわけです。斎藤 環『ヤンキー化する日本』(角川oneテーマ21)、p.219
これはたぶん宮造りの銭湯のことを指す話なのだろう。以前取り上げた*2引用をまた取り上げて確認してみる。
東京型宮造りの銭湯を数多く手がけた大工の棟梁、飯高作造さんが1月に亡くなった。
私が飯高さんと初めてお会いしたのは1988年のこと。当時飯高さんは57歳、飯高建設株式会社代表取締役という肩書きはあったものの、いかにも職人という風貌からは、この道一筋の自信というものが伝わってきた。古いアルバムを大事そうに広げ、かつて自分が手がけたという、立派なカーヴのある唐破風屋根のついた銭湯の写真を見せながら、私の質問に答えてくれた。
飯高さんは昭和20年、10代半ばで栃木県から上京した後、津村享右さんという銭湯建築を手がける方の会社で働くことになったという。津村さんは、大工の技術の他に宮大工の修行も積んだ方で、関東大震災の復興期に自分の技術を駆使して、玄関に唐破風を設け、脱衣場を開放的な格天井とし、下屋と呼ぶ湯気抜きの構造を設けるなど、新手法を銭湯建築に取り入れた。
飯高さんの修行時代、技術は見よう見まねで『盗むもの』だったという。差し金のみで唐破風屋根を作る方法も、自分で古い文献などを探しだしてきて勉強した。その努力と技術が認められて30歳目に独立し、200軒ほどの銭湯を手掛けてきた。昭和40年代後半頃からは宮造り銭湯を新築することは少なくなったということであった。
町田 忍「【追悼】最後の銭湯大工」『1010』115号、2012年4月、p.17
隈の話の出来事は、ここで語られる宮造り誕生と時期的に一致する。なぜ宮大工の技術を銭湯づくりに導入したのか、隈の話を考えるとその理由が見えたというところか。
なるほどなぁ、とも思ったのだけれど、震災からの復興期の建築というと、ほれ、歌舞伎座から程遠からぬ築地本願寺の奇っ怪なシンメトリーのことを思い浮かべないわけにはいかない。
本願寺の完成は1934年、上で語られる第三期歌舞伎座の開場1925年に10年という小さくない遅れがある。でも、本願寺のデザインは歌舞伎座のつっぱり具合に負けていようはずはなく、築地本願寺を模した銭湯が、宮造りに少々遅れてでも流行り始めて良さそうなもんぢゃないか。
斎藤によれば、ヤンキー趣味、悪趣味であることもシンメトリーに負けず劣らず重要な特徴みたいぢゃないか。その点において、本願寺、歌舞伎座にはるかに勝っていると思えるんだが、どうか。今の目で見れば見慣れたもの、悪趣味とは到底云えないかもしれないが、造られた当時のこととしてみれば、和風でもなくハイカラでもない築地本願寺、かなりケッタイなものとヒトの眼に映ったのではないか。
うーん、それとも、当時のヒトビトには、帝大の先生*3が設計したというわけで上品なものとして受け止められでもしたんだろうか。それとも、単に銭湯作りに携わる大工さんに、本願寺風を許されるコスト内で実現するための技術がなかっただけなのかな。うーん、うーん、そう考えてみれば、それだけのことかもしれんなぁ\(^o^)/。
しかしなぁ、本願寺風銭湯ってなものにも一度くらい入ってみたかったもんだと思わないでもないなぁ。うーん。
前著 『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』(角川書店)*4を読んでいないから、ホントのところはよくわかんないのだけれど、本書中の記述だけだと話が大雑把だというところは否めない。とはいえ、雑談の愉しみは充分味わえる本だった。与那覇 潤との対談後半では結構自分もヤンキーかもしれんと愕然とするところもあったし、海猫沢めろんというヒトを初めて知ったのも収穫だったかな。紙のはアマゾンではすでに品切れ*5。 Kindle版 が4月21日に発売になるらしい。軽い新書は、これからそういう扱いになっていくんだろうか。つまり、版は重ねずに紙版は売り切って、あとは電子書籍でのみ販賣という流れにしちゃうというような。そいつぁちょいと気に喰わないな。ぶー。