大山古墳(伝仁徳陵)未完成説とか
大山古墳(仁徳陵)前方後円墳の前方部分正面。知らなきゃ丘の手前に鳥居が建ってるだけだなぁ。 pic.twitter.com/rFZIjUbz32
— neanderthal yabuki (@nean) June 26, 2014
ちなみに、この拝所は1864年に初めて設けられたものであって、大昔からあるってのぢゃない。
前方部正面近くにある模型。往時、古墳には樹木など生えておらず、表面は葺石に覆われ埴輪が並べられていたそうな。この見かけに近かったのかもしれない。実際の後円部の地形はこれほど整っておらず、未完成のまま放置されたのでは、とする説もある。 pic.twitter.com/6YNUe6ehl0
— neanderthal yabuki (@nean) June 26, 2014
多少は
未完成説は、大山古墳の前方部正面拝所あたりを除けば、等高線のひどい乱れが見られるところに由来する。
「仁徳陵」実測図、1926年宮内省と
— neanderthal yabuki (@nean) June 27, 2014
履中陵との比較。
中井正弘『仁徳陵 この巨大な謎』(創元社)から pic.twitter.com/fkrKx4yE3Z
これを見ていただければ、そのへんは一目瞭然だろう。地形の乱れからばかりではなく、文献的にも傍証みたいなものはあるのだそうな。
明治時代になって、「仁徳陵」の管理を委嘱された陵掌が、
外見端正な丘状を示しているが、
其実 、起伏多く、俗に四十八谷と称し、尾張谷を以 って最大なものと語っていることを『堺市史』(昭和5年)*1が紹介している。さらに、古い江戸時代の1684年に刊行された、堺の最も古い地誌『
堺鑑 』には、示唆に富む記述がある(略)。すなわち「仁徳の築造のため、全国各地に動員がかけられたが、尾張国の人たちが遅れて来たため、築き残しができた。それがそのまま谷となってしまって、今に尾張谷といわれている。しかしこの俗説の真偽のほどはよくわからない」という意味であろう。墳丘へ自由に出入りできた江戸時代の人たちは、この激しい凹凸を自然の崩壊、あるいは後の所作によるものではなく、実際に墳丘を観察したうえで、「築き残し」、すなわち未完成と見ていたわけである。「尾州ヨリ人歩遅来」は、最も大きな谷の形状を成している場所が尾張谷と称されているところから、後に付加された説明ではないかと思われる。それにしても「築き残し」という意外な判断こそ注目されてよい。もし中世に城塞として利用されておれば、近世に入って100年も経っていない時期の地誌だから、そのことが書かれてもよさそうに思える*2。
中井正弘『仁徳陵 この巨大な謎』(創元社、1992年)、p.29
江戸期の文献には、埴輪列や葺石がかつて存在していたことを思わせるような記述もあるそうだし、近年では、「仁徳陵に無数の地割れ 地震で繰り返し被災か」(47NEWS(よんななニュース)、2012年10月25日)*3のような地震説が有力な説として現れてもいる。とくにこの記事によると、
墳丘が崩れていることは1995年の宮内庁の調査で判明しており、学界には未完成説、中世の山城改変説、暴風雨説などもあったが、地震説が決定的になった。
という。しかし、ではなぜ、同じ地震に出会っていて良さそうな堀廻りには似たような地形の亂れはないのだろう? あるいは履中陵*4の地形に同様の地形の乱れがないのはどうしてなのだろう? 堀は明治期の修復作業のせい?*5 履中陵との違いは、大山古墳だけが断層の上に作られちゃったからとか? というあたり、記事だけではさっぱりわからない*6。それに大正時代の測量でも地形の乱れは一目瞭然であるように、少なくとも素人目には見えるのだけれど、《墳丘が崩れていることは1995年の宮内庁の調査で判明》とあるのはどういうことなんだろうか。「崩れている」というところにポイントがあるということなのかな?軽くググった範囲では、「百舌鳥・古市古墳群のレーザー測量」(マント蛙のブログ 日本の産声を聞きたい)*7が、このへん、他の古墳の測量図もあげていて興味深い。古市古墳群は多少距離があるから、とりあえず脇におくとして、他の百舌鳥古墳群の他の古墳の測量図と大山古墳のそれとを比べると、大山古墳の乱れ方は圧倒的だということがわかる。そこで、《大型古墳は自然地形の山などを土台にして築造される場合が多いのですが、この破損状況から仁徳天皇陵古墳はすべて盛土ではないかと推定されようになりました》という話になるのだが、一方で、中井の『仁徳陵』には、
明治に入って、墳丘への一般人の立ち入りは禁止されていたが、陵墓の管理人であった陵掌は管理上、墳丘へ登ることができた。「(墳丘上)東方には御井戸と称して清水の湧出する所もあれば……」と述べていることは、さらに興味深い。平坦地へ盛り土して墳丘を築き上げているのであれば、はたして墳丘上で水が湧き出すであろうか。かなりの起伏のある自然の丘陵を利用して墳丘を築き上げている可能性がある。
ibid. p.30
という話も登場している。これは素人のアブク考だけれど、履中陵のような大規模な古墳を自然の丘陵を利用して作ったとして、それよりも大規模な陵墓を盛土だけで作ろうと考えるものなのだろうか。自然の丘陵を利用したとしても、あの規模と一定の形状を持つ陵墓がそうホイホイと簡単に出来るとは思えない(そうでもないのかなぁ)。それなりの苦労の記憶・伝承もあろうかと思われる時代に、苦労面倒のより多そうな盛土による陵墓造りが行われるものだろうか。まぁ人類のやらかすことはわけわかんないから、そういうことだってあるのかもしれないけれど。というか、書いてみると大いにありそうな気もしてきたのだけれど\(^o^)/。それに何より、この地震説の提唱者が寒川 旭*8となると、たぶん間違いなさそうだよなぁ、という権威主義的気分が濃厚に兆してもいるのだけれど、うーん、どうなんだろう。
参考文献、みたいな
- 仁徳陵古墳《にんとくりょうこふん》(大山古墳)
いつ書かれたものなのかはわかんないんだけれど、《他の古墳に比べ、仁徳陵の等高線は乱れすぎている。通常、人工的に整地された場所なら、等高線はそう乱れることはないもの。しかし、仁徳陵の場合は異常に乱れていることから、仁徳陵=未完成説や地震等による墳丘の崩壊説などが唱えられていますが、地震によるものであれば、周辺の反正陵なども少なからず崩壊の跡があってもよさそうな物で、未だ謎のままです》との記述あり。まぁ、そう思いますわねぇ。
- 古代史の謎!百舌鳥古墳群を歩く
本エントリの主題とは関係ないけれど、古墳見物の参考にはなると思う。ここでは阪和線百舌鳥駅下車が薦められているが、今なら阪和線南海高野線三国ヶ丘駅で下車して、駅ビル屋上「みくにん広場」あたりで後円部を眺めて地図など確認してから、というのがいいんぢゃないかな。
あと、このページ下に挙げられている文献類の発行年月からすると、上のページが書かれたのは、寒川 旭の指摘より以前なんだろうなぁ。うーん。
- マント蛙のブログ 日本の産声
上でも引用したブログさん。どういう方が書いてらっしゃるのかはわかんないんだけれど、《古墳時代を中心として専門家の意見を集めることを目指します》とのことだから、ある程度確認をとりつつということなら、このへん読む値打ちがありそうかも。
寒川旭「地震の日本史」(大地震に備える)*9仙台放送制作のサイト。地震説のヒトの、エッセイ風地震考古学のお話。ページ下部に連載の目次あり。 第11回「古墳は地震計」と題するものもあるが、残念ながら大山古墳の件には触れていない。何にしてもおもしろい興味深い話が続く。読んでいると、このヒトの説なら、たぶん正しそうだな、って気になってくる
\(^o^)/
。「地震考古学」(Wikipedia)によると*10、このヒトが地震考古学の提唱者なのださうな。そもそものきっかけは、現在百舌鳥古墳群とともに世界文化遺産登録を目指している古市古墳群の航空写真だったんだとか。へぇー。
中井正弘モノ*11。ここんところ、堺ネタとなるとこの方の著作にばかり頼ってますな。でも一般的な話ばかりの類書と比べると、著者自身の眼で資料をたしかめて考える姿勢からの語りはやっぱりおもしろいんだから仕方ないですね。
いずれも未読。こうなってくると読まないわけにはいかないかなぁ。けれど、どちらも2011年の刊だから、つい最近の研究成果に基づく大山古墳についての言及はなさそうだしなぁ。うーん。
*1: 原文縦書き漢数字。以下同様。
*2:引用者註:中世期に堺が戦場となったおり、墳丘に城塞が設けられたせいで地形の乱れができたのではないかという説がある。
*3:【復旧時註】元記事は削除されたみたいで見当たらないが、共同通信配信記事として、「仁徳陵に無数の地割れ 地震で繰り返し被災か」(日本経済新聞)などが残っている。
*4:cf. 「上石津ミサンザイ古墳」(Wikipedia)。大山古墳の直近にあって、しかもより古いんだから大山古墳が被ったような地震の影響を免れるとは考えにくいんぢゃないのかなぁ。
*5: 大山古墳の前方部拝所側部分が整っているのは明治に行われた修復のおかげらしい。また外堀もこの時期に掘り直されている。ここいらへんもアレコレあるんだけど、面倒臭いのでここでは触れない。
*6: ここいらへん、ちゃんと元調査に当たればわかるのかもしれないけれど。
*7:【復旧時註】現在、ブログ名が「マント蛙のブログ 日本の産声」に変更されている。
*8:cf. google:寒川 旭
*9:【復旧時註】すでに削除された模様。読み返せず残念無念。
*10: 2014年6月27日閲覧。
*11:cf. google:中井正弘 堺