どこでも、だれでもバンクシー。

 写真の下がこのままでは切れているので、右クリックして画像の全体を別タブとかで開いて見るのがお薦め。アイディアの冴えはあるんぢゃないですか、なかなか。仕事もていねいだし。

 今回の騒ぎのおかげで、いろんなパロディやそのまがい物がtwitter上に溢れたけれど、個人的にはこれが一番好き。もっとも今回の騒動とのつながりは薄くなっちゃってるかもしれないけれど。

 と他人様ひとさまtweetで済ませてもいいのだけれど、それでは小ネタにしても手抜きが過ぎるところ、いくらかの蛇足を以下に。

 

 港区の防潮扉だかどこだかのバンクシーの手になると思しいステンシルものの話*1、特段の関心はないのだけれど、一つ思い出したことがあってググり直してみて再発見したページがあって、そのへんからアレコレ考えるふりをしてみることには多少の興味がないでもない*2

というeBayのページ。冒頭でもうおわかりかと思うのだけれど、中ほどまでたどってみると£5.99だから850円くらい(?)で件のステンシルの型紙が売られていることがわかる。型紙そのものがバンクシーの手になるのかどうか怪しいみたいだけれど、仮に別人の手によって作られ売られているとしても、この程度のステンシルなら「本物」と寸分たがわぬ「偽物」を作ることは容易たやすい。浮世絵で云えば絵師・彫師の仕事がまとめて売られているようなものだ。あとは刷師の腕前次第、いくらでも「本物」と「同一」の「偽物」が作れるようになっている。浮世絵であれば、刷師の腕前はアタやオロソカに出来ないところ、街中のグラフィティとしてのステンシルならば粗野なくらいがちょうどお似合いなのであって、素人刷師の腕前で充分見た目は通用してしまう。型紙を入手しさえすれば、誰でもどこにでもバンクシー作品をデッチ上げることができるのだ。もうこうなると俗流の《本物/偽物》議論は通用しない。そこのところはオモシロイといえばオモシロイかもしれない。

 もちろん、俗流の《本物/偽物》議論にはもう一つ打つ手があって、作者本人の証言なり活動記録なりを得るなり見つけるなりするという手もないではない。実際そういう手を使うと、

ということになるのかもしれない。

 しかし、こうまでしないと作品の真偽が確かめられないとすると、「本物」の価値はその形態や色合いその他「本物」の作品そのもの持つ属性に由来するはずだという俗流美学では、どうにも扱いようのない問題に撞着することになる。

 で、社会現象としてゲージツを眺めると、どうしたって作品の価値は、本物/偽物を問わないなにがしかのコンテクストにおいてあるというふうになっちゃうんぢゃないですかね。その余は各人の思い込みの強さの問題に過ぎないのだというと、また怒られちゃうんだけれど(誰に?)。

そんなふうにご専門の方におっしゃっていただけるとかなりすっきりするような気がする。気がするのだけれど、そうすると今度は自分が愛して止まない(つもりの)アレヤコレヤに対してずいぶん後ろめたい気分が湧いて来たりもするんだよなぁ。いやはや、やれやれ。

 

 なんだか日本語が怪しい商品だけれど^^;。よもや、と思ってアマゾンでも検索してみたら、ステンシルの型紙が売られていた。鞄と傘を持ったネズミくんのは見当たらなかったけれど、こちらも有名だよね。サイズによって価格は異なる。コイツは一番高いヤツ。

ありふれたものの変容:芸術の哲学

ありふれたものの変容:芸術の哲学

 
なぜ、これがアートなの?

なぜ、これがアートなの?

 

 このへん、文庫か新書で出ないもんですかね。廉価版があってこそ使命が果たせる本って世の中にはいろいろあると思うなぁ。う~ん。