本日の備忘録/けふはえびのやうに

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※ 写真は本文とあんまり関係ありません。

 室生犀星作品について、緩くて雑な話を一つ。敬老の日ネタにでも、と書きかけていたのを、すっかり忘れていた。しかしまぁ、そういう目論見に適う話にはまったくもって全然なってないっすね、あらまっ\(^o^)/

けふはえびのように悲しい
つのやらひげやら
とげやら一杯生やしてゐるが
どれが悲しがつてゐるのか判らない。


ひげにたづねて見れば
おれではないといふ。
尖つたとげに聞いて見たら
わしでもないといふ。
それでは一体誰が悲しがつてゐるのか
誰に聞いてみても
さつぱり判らない。


生きてたたみを這うてゐるえせえび一疋。
からだじうが悲しいのだ。

室生犀星「老いたるえびのうた」*1

 一読、降りてきた1行目、第1行の言葉と戯れて展開する第2連、アレコレにオチをつけるための第3連、というふうに見える。

 直喩の第1行。この1行の喩との戯れで、以降第2連までの詩行は成立している。

 しかし、《けふはえびのように悲しい》の「直喩」、どこがどうすると「えび」が悲しさのかたちとなるのかがすでに「さつぱり判らない」。「手術台の上のミシンと蝙蝠傘の不意の出会いのように美しい」ほど手強くはなく見えるけれど、《えびのやうに悲しい》もそれなりに面倒な直喩ぢゃないか。が、その喩の読み解きにはノーヒントのまま、2行目はもう「直喩」であることをやめる。「直喩」でなくなるばかりではなく、そもそも一般的な意味での比喩ではなくなっている。《えびのやうに悲しい》のわけのわからなさはそのまま放り出され、《つのやらひげやら/とげやら一杯生やしてゐるが/どれが悲しがつてゐるのか判らない。》は、「直喩」から湧き出したナンセンスなヴィジョンみたいなものだろう。しかもそのおかげで、謎を残したまま興味を切らせることなく読める言葉になっている。

 朗読ならば常田富士男、冒頭からの連想で出て来た言葉が調子良く並べられ、改行への配慮も抜かりなく、日本昔ばなしとでもいったふうな語り口のおかげで、ナンセンスな問答に読みがつっかえることもない。「えび」の「角」やら「ひげ」やら「とげ」やらが、それぞれバラバラに悲しさを感じたり感じなかったりするという話など、何かの「隠喩」というよりもそれ自体で自立したイメージみたいなものだよね。

 

 第3連。第2連までとは打って変わった、現実還元的な読みを誘う言葉が登場する。「老いたるえびのうた」というタイトルが頭にあれば、あぁ、要するに老いの全身的な衰えの悲しみかぁ、と合点することになる。なるのだけれど、さて、そのあたりをおもしろいと見るかつまらないと見るか。

 ここでの「えび」は老いた語り手自身の隠喩。だから、「えび」は「えび」でも「えせえび(似非海老)」。「えせえび」から想起される言葉は「伊勢海老」、畳の上を這う伊勢海老、その実哀れな身の上の悲しみに打ち拉がれた老詩人ということになる。躰も思うようには動かせず、苦痛にまみれた生を、第2連までのいくらかユーモラスな調子によって自己憐憫まみれにならずに書き上げたところに、かえって強く老いの悲しみが……とかなんとかいうところなんだろう。ご存知の方はご存知だろうけれど、本作は犀星の絶筆。そういうことも考えるならば、このへんは一層強調されることになる、のかな。

 

 事情を伝える詞書みたいなものがあるわけでもない以上、そのへん、考えに入れる義理はないに決まっている。決まってはいても人情が疼くということはあって、伝記的なあれこれから、末期癌の苦痛に呻く詩人を思い浮かべてみると、ライトヴァース風の仕上がりに凄みが出て来ると考えるべきかもしれない。《えびのように悲しい》とは、逃れようのない苦しみにじたばたとのた打ち回る水揚げされた海老のように悲しいということか。悲愴を諧謔でヒネって見せた、ちょっとカッコいい辞世の逸品と評してみたくもならないでもない。

 でも、それはそれで、何となく落ち着かない。やぱり作品一つ一つを独立したものとして読まないでどうする。「えせえび」なんちゅうのは駄洒落もいいところ、ださださぢゃないか。冒頭の「えび」を受け止め直すにしたって、もちっと別の芸の見せようだってありそうだしぃ。といったようなウダウダをとりあえずは考えるのだけれど、しかしまぁ、室生犀星の絶筆ともなれば、作品を掲載している書籍の解説だったり註釈だったりに、そのことはまず記されている。記されていないのは、今どき青空文庫くらいかもしれない。つまり、作品中では語られない成立事情も、普通の読者からしてみれば、現実的にはその程度の解説・註釈は作品と地続きの言葉、実質作品の内にある言葉として見ていいんぢゃないか、ということにしておこうか。はてさて。

 

 というような迷いをこちらに残すところがアレなのだけれど、躰のあちらこちらにガタが出て来る今日この頃、ついうっかり思い出して我知らず口ずさんだりしてしまうのだから困ったもんだ。う~ん。

 

 「老いたるえびのうた」収録。

 アマゾンの講談社文芸文庫の売れ筋ランキングを覗いてびびつくり。3位埴谷雄高『死霊I』2位大江健三郎『万延元年のフットボール』を抜いて、本書が1位になっちょる。「蜜のあはれ」が映画化された強みということなんだろうか。でも、映画化されたのって結構以前だよね?

 ちなみに、室生犀星の大概は青空文庫で読める。犀星に興味がなくても近現代詩に興味がおありなら、室生犀星『我が愛する詩人の伝記』あたり、お薦めしていいんぢゃないかと思う。講談社文芸文庫版もある。犀星の日本語ってなんとなく苦手なのだけれど、これはあまり滞ることなく読めた記憶あり。

 

*1: 「室生犀星 老いたるえびのうた」(青空文庫)よりコピペ。HTMLには多少手を入れた。

残暑お祝い申し上げまっす!

 

 残暑お祝い申し上げまっす!

 

 オツムがすっかり茹だってしまって、昨日今日立秋だったと今にして気づくというテイタラク*1。だって、まだまだ酷暑の真っ最中、到底暑さの残りっ滓ってな感じではないですもんね。ホーキング博士が晩年口にしておられた地球の金星化*2にもなんだかリアリティが出て来たというところですか。

 温暖化対策としては、少なくとも再生可能エネルギーが実用化普及するまでは原子力発電に頼るしかないとの話も耳目にするし、それも仕方ないのかなと思ったりもするのだけれど、「EDF cuts output at nuclear power plants as French rivers get too warm」(The Guardian、8月3日付記事)、原子炉冷却用に利用すると取水元の河の水温の上昇を招き周囲の生態系に悪影響を及ぼすっぽいので、冷却水として使うわけにも参りませんわな、なんぞという話が、ヨーロッパにおける原発の聖地、おフランスから沸いて出て来るとなると、はてさてどうしたものですかね。

 北海道より北にあるはずの土地でも気温が40℃を超えてしまう昨今*3、温暖化はすでに予測ではなくて進行中の事実だし、いろんな側面でこれまでの予測以上の災厄を生み出しそうな勢いになっちゃってるというあたり、もちっとヒリヒリした危機感をもって考えなきゃいかんのでせうかね。

 温暖化対策がまともに採られなかった場合、2100年頃には地球の平均気温は4.8℃程度上昇しちゃうと予測されている*4。だから、このヴィデオが扱う3℃の平均気温の上昇は、それと比べれば軽微な上昇にとどまる。それでも、まだ3℃の上昇に至らない現在*5でも、すでに小さからぬ問題が現実化しつつある。今後、単に夏の耐え難い暑さがますますひどくなるといった程度の問題にとどまらず、質的にも政治経済人文社会のやたら多彩な領域で面倒が爆裂しちゃう。いやはや、やれやれ、だ。

 と、そんなこんなで、まだまだ今の暑さは平和なもの、祝っておいてもバチの当たらないものなのですね(違

 

 そりゃいけませんねぇ。う~ん。

 

 文庫化からも早10年かぁ。

 

*1: 昨日今日さえ勘違いするほどの茹だち具合、まったくもってお恥ずかしいぞ\(^o^)/。

*2:cf. 「地球の気温は250度まで上昇し硫酸の雨が降る」ホーキング博士|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト。もちろん、この見方には批判もある。e.g. Zeke Hausfather on Twitter: "A good example that even brilliant scientists sometimes say silly things when it's outside their field of expertise (see Nobel disease) https://t.co/QPsmB1bsv0" / Twitter

*3:cf. Record UK temperatures fuel climate change fears - BBC News - YouTube、イギリス本土のほとんどは北海道より北にあったはず。そもそも18世紀あたりまでは、夏の平均気温が20℃に達していなかったとかなんとかぢゃなかったっけか。まぁ、そうでなきゃ三つ揃えのスーツみたいなクソ暑苦しいファッションを思いついたりせんわなぁ\(^o^)/。

*4:cf. 2100年 未来の天気予報 『1.5℃目標』未達成・夏 - 動画チャンネル環境省COOL CHOICE、YouTube、2019年10月公開。

*5: ヴィデオの公開は2021年10月末。

同じ釜の飯、同じ皿の餌

 ひさしぶりに他人様ひとさまtweetにて失礼。引いたtweetも冒頭の1行からすれば、オリジナルの投稿者によるものではないみたい。ということは、他人様の褌の又借という衛生具合に不安を覚えちゃう話になっちゃいますかね^^;。

 

 研究所にごちゃごちゃ五月蝿い鼠出来、これは猫様の活躍処とばかりに飼い猫を連れてきたらば鼠を咥えてテクテク、これはシメシメでかしたぞ、と思ったら、……というお話。言葉にするとずいぶん簡潔、ヴィデオで見てもさらに簡潔簡単。とはいえ、これは良く出来たショート・フィルムといった趣かな。

 家畜・ペットの類なら異種同居、妙竹林な親密の例は、YouTubeで動物ネタ動画を漁っていればいくらでも転がっている。しかしまぁ、うっかりすると喰う喰われるの間柄にあるはずの2匹が仲良く並んで同じ餌を喰らうとは何事か。ヒトに飼われた生き物たちとなると、野生の感覚などとうの昔に失調し、健全な働きなどもはや期待すべくもないということか。

 

 と考えるともなく考えながら、気になって來るのは動物のことよりも人類のこと。異種との共同生活を繰り広げたのは、「猫様と鼠」よりも「人類とその他の生き物」のほうが先行しているに違いない。また、事例も遥かに多いだろう。異種の獣その他を取っ捕まえて愛玩の対象としてみたり、品種「改良」と称して、たとえば蘭鋳ランチュウのような奇妙化態なヤツを作り出して珍重しさえする。わざわざヒトへの依存抜きには生きていけない連中を作り上げ、給餌に散歩に健康管理と、自分の生活の面倒を増やして喜ぶ人類というのはやっぱり変なヤツらだと云わざるを得ない。

 毎度、人類のやらかすことはよくわからない。

 

 タイトルは毎度デタラメな思いつきです。相済みませんm(_ _)m

立ち読み課題図書、その他

 

 7月20日刊行予定。星野博美はつい先日「本日の備忘録/More Than Human」で触れたばかり。

 

 

本日の備忘録/7月8日からこのかた

 7月8日、安倍晋三元総理大臣が射殺された。支持できない政治家ではあったけれど、そのことが冥福を祈る妨げとはならない。ご冥福を祈る。

 

 読み比べる習慣をそもそも持っていないとこういうことには気づけないなぁ。

 モハメド・アリが亡くなった折のアメリカ有名処メディア電子版で似たようなのを見かけたことはある。やはりほとんど同じ見出しが並ぶ様に驚いたのだった*1。ヒトの死に際して、まず書けることというのは、そういうものなのかもしれない。

 事の直後とあっては、ことさらな陰謀論や無理な逆張りみたいなのでなければ、ユニークな見出しや驚天動地の報道内容など放り出しようもないというところか。そこいらへん、書き手の怠惰や不誠実によるわけではないというのも、つまりヒトの知性みたいなものに、硬直した機械的条件反射的反応を引き起こすのも、こうした事件の厭なところだ。とはいえ、わからないことだらけであるはずの段階で、変に詳細な記事が書かれることを想像してみれば、そういう事態よりはずっとマシであるには違いない。

 

「衆議院議員吉井英勝君提出巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問に対する答弁書」のことを思い起こす。議論の形としては似たようなものに見える。安全なのか安全でないのか。安全だという判断が多数派。しかし、結果のみ云えば安全ではなかったどころの騒ぎではなかったわけだ。

 本人が警備の軽微を善しとしていることを知っていた場合、SPなり県警なりが厳重をゴリ押しできるのかどうか。軽微を望まれてなお厳重を考えるべきだといったあたりが正論にはなるんだろうけれど、そういう主張を押し通せるかどうか。そういうことを頭に転がしながら、「奈良県警本部長が記者会見 安倍元首相銃撃事件 「警護上の問題あったこと否定できない」 <7月9日午後6時~>」(関西テレビNEWS、YouTube)を見ると、また僕が考えても仕方のないことを考えてしまったりする。

 ついでながら、「公開抗議文 衆議院議員 安倍晋三 先生へ」(全国霊感商法対策弁護士連絡会)も。こうした抗議が聞き届けられて、カルトとのつながりを絶っていれば……と考えたりもする。抗議文は、政治家が宗教団体の言いなりになることに対するものではない。つまり政治的な主義主張イデオロギーその他によるものではなく、その手の団体の怪しい商売を政治家が実質的に後押ししちゃっていることへの抗議。今回の事件は、(容疑者の供述が正しいとすれば)まさしく後押ししていることに対する恨みを動機としているように見える。カルトが政治家に重宝されるのは、金蔓になるばかりでなく人員動員にも力があるからというのが大きい。金蔓は、壺に印鑑の霊感商法その他でもって被害者である国民から巻き上げられた金に由来するものだろう。そこにいろんな怨嗟が渦巻くことになったとして、何の不思議もない。そこは動かないんぢゃないか*2

 こういう話をすると、故人に対する慎みを欠いた無礼な自業自得扱いだとかイデオロギーに囚われた状態でしかヒトの死を扱えない下衆な発想だとか見なす方もいらっしゃるみたいだけれど、それは全然当たらない。こういうことがあれば、仮に本人が軽微な警備を望んでも、今後は厳重な警備を考えるべきだし*3、国民を騙くらかして稼ぎをあげるカルトと仲良くするのは、政治家にあるまじき行為であるばかりか、そこから生じかねない恨み辛みの結果として御身の安全安心が脅かされかねないことを考えても止めたほういいというだけの話だ。事件からなにがしかの反省点を見出し、よりマシな未来を考えるという当たり前の話に過ぎない。

 

「《安倍元首相銃撃》『家を全然出たがらない子だった』『挨拶しても俯いたり、目をそらす』“計画的な犯行”で元首相を銃殺した山上徹也容疑者(41)の“正体”とは」(文春オンライン)のヘッダの写真が不思議。その場に居合わせたヒトたちには、銃声が銃声として認識されなかったということなんだろうか。いっせいに逃げ出し始めるヒトビトでパニックが生じちゃうよりもずっとマシな反応であるのかもしれないのだけれど、蟠るところ。

 それにしても、見出しの「正体」の使い方、いかにも人目を惹くためのものと見えるのがなぁ。「身元」ならば一晩もかからず割り出せるだろう。すでに逮捕されているわけだし、取り調べに対して黙秘を続けているわけでもないのだからなおのこと。仮に捕まっていないような場合でも、映像が残されていれば……というようなケースはここでも取り上げた。ただし「正体」となるとどうか。逆張り陰謀論、何かと面倒臭い方面をこよなく愛するネット民の間ならば間違いなく、うっかりするとオノラブルな界隈でも、これからしばらく「正体」を巡る議論は続いたりしそうに見えないか。

 

「安倍晋三元首相狙撃事件に関する声明文」(日本サンクチュアリ協会)、山上徹也容疑者とのつながりを全否定している。容疑者の母が世界平和統一家庭連合(旧統一協会)に入信していたことは、早い段階で家庭連合側も認めているが、サンクチュアリへの山上容疑者の入信の件は、確認が取れたかどうかわからないままの拡散。このへんにお詳しいと目される、藤倉善郎@やや日刊カルト新聞 (@SuspendedNyorai) / Twitter鈴木エイト ジャーナリスト/作家/物書き (@cult_and_fraud) / Twitterがいかにも慎重な、抑制的な姿勢で話を扱われていらしたのが、今になってなるほど、ということになるのかな。

 いわずもがなかとも思うのだけれど、パッと見のもっともらしさに僕らは実に簡単に惑わされる。そこいらへんの話がどう転んだところで、何かとんでもない影響を被るといった立場にはないのだから、惑わされることさえ烏滸がましいってなもんだと心得なきゃぁねぇ。せいぜい物語に抗うこと。とまとめるのもアレかな。ということで、そのへんも他人様の褌を借りるとすれば、斎藤 環「性急な物語化やラベリングは危険 安倍元首相の銃撃報道に精神科医が抱く違和感」(BuzzFeed)あたりか。

 

 これを以て本件の総括とするというようなわけではなくて、個人的に気になったことのとりあえずのメモ。こういうデカい事件・事故の、とくに詳細不明の段階では、僕みたいな凡庸極まる人間の語れることなど、すでに大概のヒトが書いているものと似たりよったりに決まっている。なんて書いちゃうと、メモだってそうだろうってなことになるんだろうけれど、こちらは検索の面倒を嫌ってのこと、どこかにそっくりなメモが存在していたとしても個人的な重宝のためなんだから、よろしいのです。

 

 《パッと見のもっともらしさ》のことを考えながら、何となくあれこれ頭の中で転がしているうちに思い起こした一冊。

 96年に単行本が出たのがしぶとく生き延びて、手許にあるのは文庫、2006年11月26日第12刷、第1刷は2002年。文庫化されてからだけでも、もう20年になるのかぁ。

 Kindle版も出ている。簡単に物語の罠みたいなものに引っかからないために、また読んでみますかね。

 

*1: 未復旧エントリで取り上げたのだけれど、未だサルベージ出来ていない。

*2: 統一教会から議員への金の流れは、確認されてはいないとの話あり。人員をボランティアとして使えるというのが、金以上に大きいらしい。

*3: もちろん、過剰警備で野次さえ認めないというようでは、もはや西側先進国とはいえなくなっちゃうから、あくまで身体的な警備でなきゃダメよ。