主題を分析的に捉え直す

 しかじかの事柄について考えるとき、どうしても僕たちは善し悪しを決めるのに性急になってしまう。そのために考えるべきポイントを捉え損なうことって多いんじゃないだろうか。考えるべき主題を少し分析的に見直すだけでも、ちょっと違った視野が開けるものだ。主題の分析を通して考える簡単な事例をあげてみよう。以下は、大学入試の小論文問題から。問題そのものは比較的やさしく見えるものだと思うんだけれど、どうだろう?

 次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。

 ある町の裏に、奥深い森がある。その森には、数多くの動物や鳥が棲んでおり、大きな川も流れている。ところがこの町は、例年夏になると水不足に悩まされる。また、町には大きな産業がなく、この森を利用して生計をたてないとやってゆけないような状況に追いこまれている。

 そのときに、ある開発計画がもちあがる。森のなかを流れる川にダムをつくって、町の水不足を解消しようというのだ。もちろん、森の一部はダムの底に沈んでしまうが、でも町の人びとの生活にはかえられない。同時に、森の木々を計画的に伐採し、木材として売って産業にする。もちろん、切ったあとには植林をして、森林資源を絶やさないようにする。さらに、森のなかに遊歩道やロープウェイをつくって、気楽にピクニックできるようにする。町に人びとの憩いの場として利用できるし、都会からの観光客をよぶこともできるかもしれない。こうやって、森を人工的にうまく管理してゆけば、それは自然保護とも両立するはずだ。

(出典:講座 人間と環境12『環境の豊かさを求めて 第1章 自然を保護することと人間を保護すること』森岡正博 昭和堂 1999年)

 町民の意見は以下に示すように開発賛成と反対に分かれました。

開発賛成: 自然保護とは、そこに生きる人間が自然をかしこく利用していけるように、自然を管理することだ。木を切りすぎて災害がおこらないような対策と資源管理ができれば、問題はない。飲み水の供給と観光収入で、住民の生活の質も向上するのだからけっこうな話だ。よそから来る人にも自然とふれあう機会ができるし、これこそ自然保護、自然との共生ではないか。

開発反対: ダムができれば森全体の生態系は破壊されてしまう。植林したとしても、もとの自然林がもっていた豊かな生態系を取り戻すことはできない。遊歩道などの施設をつくることも、破壊にはかわりはない。人間が自分たちの利益のためだけに自然をつくりかえることは、あってはならないことだ。施設から眺める自然も、人によって破壊された自然の残骸でしかない。それを自然との共生というのは、勘違いもはなはだしい。


問い あなたはこの開発計画に対してどのように考えますか? 「自然との共生」とはどういうことかを中心に、600字以上800字以内で意見を述べなさい。

 この問題を解いてもらったときに気になったのは、開発賛成派と開発反対派に答案がきれいに二分されてしまったこと。別に賛成派の意見じゃ困るとか反対派が気に喰わねぇとかいったことでも、中途半端などっちつかずが僕の好みにぴったりだからみたいなことでもなくて、なんか構想を練る段階で2パタンしか答えようがないみたいな思い込みがあるんじゃないかなぁと感じられたのが気になったのだ。

 資料を読む場合、要約的な理解が大切だってことは動かない。でも、それだけで済まないことだってある。とくに論考の主題(ここでは資料中の開発計画)がどのようなものかはていねいに分析し検討する必要がある。そういう作業なしに、いきなり反対だの賛成だのを決めちゃうのは考察を粗雑にする原因になる。

 たとえば、この開発計画は以下のように複数のステップにわけて捉えられるだろう。

  1. 水不足を解消するためのダム建設
  2. 収入を確保するための森林伐採
  3. さらなる収入確保のための観光開発

の3つのステップだ。賛成/反対を考えるにしたって、3つのステップそれぞれに対しての賛成/反対が考えられるわけだ。だから答案は「賛成/反対」を複数組み合わせてできあがっていてもいいはずなのだ。にもかかわらず、誰も彼もが、3つまとめて計画全体の賛成/反対しか書けなかったということは、この3つのステップに分けて考えることができなかったんじゃないか、ってふうにみえたわけ。

 仮に「自然との共生」を非常に素朴に「人と他の生き物たちが同じ場所で共に生活すること」とでも定義してみると、たとえば次のような考察の枠組みが考えられるかもしれない。

 ダムができ森林が伐採されれば、全滅ってことはないにしても、棲みかを失う生き物たちも出てくる。でも、水や収入なしには人間は生活できない。

 しかるに「自然との共生」の定義を「共に生活すること」とするなら、1.および、2.は人間が生きるのに不可欠であるゆえ、共生にもまた不可欠であると見ることができる。しかるに、3.の段階に関しては、人間の一通りの生活に必要な以上の自然破壊が行われ、生き物たちの棲みかが2.までの段階以上に損ねられる可能性が高い。もちろん、2.によって確保される収入がどの程度のものになるのか不確定だ。でも、一気に3.の段階まで計画に組み込んでしまうのは、生活の確保以上に人間の勝手な欲望の貪りを認めることになりかねない。つまり「共生」のバランスを欠く可能性が高い。

 ならば、「自然との共生」を中心にして考えるなら、この計画は、2.までの段階はとりあえず認められるけれど、3.の段階は、2.まで計画を行ってしばらく様子を見た上で再検討するのが妥当なんじゃないか。

 で、そんなふうに捉えてみると、「自然との共生」を中心にして論じながら、問題で取り上げられている賛成派にも反対派にも批判を加えられるんじゃないかな?

 

 別にそう考えなければならないというわけではないけれど、開発計画全体に賛成/反対していた答案には、資料の読みが粗雑にすぎると感じられることが多かった。漠然と良い/悪い、yes/noを考えるのではなくて、まず考察対象を少し分析的に捉え直してみよう。面倒かもしれないけれど、ちょっと他と違ったアイディアが見えてくる可能性が出てくるはず。

 

 でも、さらに考えてみると、本当のところ、定量的なデータのない、たったこれだけの資料では、賛成/反対を決めるのはもちろん、計画への評価を考えるのには不足なんじゃないのか、ってのも気になるんだけど……。ま、そこまで突っ込むのは止しとくね。

 とにかく、考察の対象を分析的に捉え直して考えることは大切なのだというところ、よく頭においておきたい。

 

吉岡のなるほど小論文講義10

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