堺貼り紙・看板散歩/案内札

 普段は一般に内部公開されていないのだけれど、凱旋門風の正面前を道すがら眺めるだけでも何となく眺め甲斐があるブツ。1910(明治43)年の建設。

 貼り紙のおかげで案内の一部が読めない状態になっている。その案内も何年まで使われていたのか、その年が記されていたと覚しき部分に、たぶん訂正のためと思われる紙が貼ってあるのだけれど訂正されてあるはずの文字数字は、元から書かれていなかったのか消えてしまったのか見えない。英語版のほう、透けて「1964(Showa39)」とあるのが見えているが、これはたしかに誤りのようだ。「旧天王貯水池」(堺市)hatebuによれば、《旧天王貯水池は、明治43年(1910年)に計画給水人口6万人の規模の上水道配水池として建設され、昭和37年まで約50年間にわたり、その役割を担ってきました》とのこと。

 貼られたポスター、11月1日、2日の旧天王貯水池一般公開の知らせと、この写真と撮った日に行われた公開勉強会の告知のもの。それはそれで告知される値打ちのある情報だとは思うものの、掲示の仕方を考えないままだと、いかにもぞんざいな文化財の扱いぢゃないかと思える。

 公開勉強会のほう、この時刻にはもう終了しているもののようだったのだけれど、会場が「旧三丘会館」とあって、あぁそういえば、あれも文化財指定を受けていたっけと足を伸ばしてみたのだが……。

 上記中「三国ヶ丘高校」とあるのは誤り。正しくは「三国丘高校」ってことに今ではなっているらしい*1。「旧三丘会館」とは三国丘高校同窓会館の別称*2。会館のまわりには公開勉強会のためなのか、学校関係者のものなのか、車がごちゃごちゃ停まっていて撮る意欲が萎えてしまった。

 が、まぁそんなことはどうでもよろしい。それよりこの案内のメンテ具合はどうしたものか。何だか文化財そのものが大切にされていないように感じられやしないかしら。

 

 文化財なんてなものは、とりあえずブツが残っていればそれでいいというもの、ではないと思うんだがなぁ。とくに空襲のおかげで戦前からの史跡が歴史そのものと比べて格段に少ない堺では、戦前からのブツについて、なおのことそうぢゃないのか。古墳とか自由都市とか、もう僕たちの時代に直結するわけのない時代の遺物よりはよほど大切にされていいはずのものぢゃないか。そうでもないのか。うーん。

 

参考文献、みたいな

堺を歩けば。
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*1: cf. 「大阪府立三国丘高等学校」(Wikipedia)hatebu《1948年10月の大阪府条例では、校名は「大阪府三国ヶ丘高等学校」と告示された。学校や大阪府では1950年頃から「大阪府立三国丘高等学校」の表記をもっぱら使用していたが、条例の上では「三国ヶ丘」のままだった。2001年に条例上も正式に「大阪府立三国丘高等学校」となった》とある。全然知らんかった。

*2: ということでいいのかな? 「旧」がつくのは平成に入ってから「新三丘会館」が出来たからだと思う。ということは同窓会館のほうも「旧」をつけるべきなのかな? まぁよくわかりませんな。