本日の映像/ねこ様と鏡。
Cat in the mirror..
— Buitengebieden (@buitengebieden_) December 8, 2021
Wait for it.. pic.twitter.com/O8vnXMPLJs
— Cats did what they shouldn't (@whatcatsdid) May 2, 2021
この手のねこ様動画にさほどの関心を抱かない方も、一通り最後までご覧になられたし。
※ 引いていたツイートがなくなってしばらく放置していたのだけれど、別の方の投稿で同じヴィデオが復活した。というわけで、差し替えた。ヴィデオのあるツイート下のツイート跡は、以前引用していたツイートのもの。2021年12月9日
この手の動画の中では、それなりの巧みのある作品でしょ?
ドンデン返しとでも云えそうなラストには唸るしかない。キートンなんかの無声映画に登場するようなリアルと「鏡像」の同期の破れというオチは実に見事だ。キートンならばギャグとなる破れが、ここではギャグでもありホラーでもあるかのような、微妙な情動を喚起する。
最後の、謂わばドンデン返しみたいなものがなければ、
ドンデン返しを見た後となっては、そこに至る映像も果たしてあるがままを写したものであったのかどうかが怪しく思えてくる。いかにも知的な好奇心の芽生えみたいなものを感じさせるねこ様の所作も、巧みな撮影者の作為によるもの、特殊効果や編集を駆使した結果だったのではないか……。
おかげで、もう一度改めて見直すことになるのだが、さて、いかにも編集なりCGなりが入っているなと感じさせるような映像の破れ目が見当たらない。かといって、「ドンデン返し」を思い起こせば、目の前のそのままの映像を信じることもできない。ただ、うーん、と唸ることになる。はてさて。
いやぁ、参りましたね\(^o^)/
立ち読み課題図書、その他
まだ読んでいないのであつた\(^o^)/
本日のBGM/Josquin des Prez - La Déploration de Johannes Ockeghem [Dylan Henner edit]
ジョスカン・デ・プレ*1でもって、ヨハネス・オケゲム*2の名前がタイトルに登場しているんだから、まずはこりゃ古楽と思うのに不自然はない。ないのだけれど、タイトル末尾に「[Dylan Henner edit]」と怪しい文字列が並んでいる。さては、現代のアーチストが古楽をイヂってみせた作品かと踏んで聴いてみたらばビンゴ!というところ。デ・プレをイヂってアンビエントだかドローンだか風に仕立て上げたということだな。
YouTube再生ページの概要欄にディラン・ヘナー自身のライナーみたいなのが上がっていたので、そのまんまここでも引いておく*3。
"Two threads lead me to this music. Firstly, as a boy I spent a lot of time sitting at the back of cold churches, reading or doing homework, waiting for my mum's choir rehearsal to finish. This bored me a lot when I was a kid. But I realise - a bit older - that the regular immersion in choral music left me with a really deep love for it. Now, I'm totally obsessed with it. I spend loads of time with composers like Gabriel Fauré, Thomas Tallis, Josquin des Prez.
Secondly, I've come to understand Early Music through a contemporary lens. A lot of characteristics found in Early Music - the tempo, the simplicity, the appeal to deep senses instead of surface interests - coincides with what we would now call ambient music. A lot of the choral music I like most could be seen as a kind of proto-ambient music. This includes Josquin des Prez, and this yearningly beautiful piece Deploration sur la Mort de Johannes Ockeghem, a memorial to the death of a friend.
I can't take credit for the piece. It's des Prez' composition. But in listening to it, I realised just how much influence I take from it. I processed a recording of the piece (heavily, through a variety of reverbs, filters and time-stretches) to try to bridge the gap between its original form and a version of it that views through a contemporary lens - highlighting those elements we could call ambient music."
- Dylan Henner
なんとなく「本日のMusic/Gothic chant - École de Notre-Dame: Benedicamus Domino」で書いた混乱気味の議論を思い起こしたりする。要するにアンビエントとかエレクトロニカとかに耳を傾けているとオルガヌムとか中世音楽とか西洋近代音楽の根っこみたいなところから継受しているものが聴こえて来ることがあるぞというあたり。こういうのは言葉にすると何だか通俗的な文化芸術論になっちゃうこと請け合いなんだけれど、まぁ実際なっちゃってるんだから仕方ないな\(^o^)/、というあたりはさておき、このヒトの場合、オルガヌムまで遡るわけぢゃないけれど、古楽を実際にしつこく耳にした、それなりに意識的な経験があってのアンビエントだったりするわけなんだな。そういうことってやっぱりあるのね。一例を以てして、全体を云々するわけには参らないのだけれど。
上のデ・プレものの音源はアマゾンでは見当たらなかった。あってもカセットぢゃ、再生に必要なアレコレが手許にないもんね。というわけで、昨年9月のリリースということだから、たぶん最新アルバムということになるコレをあげておく。
「Dylan Henner - The Invention of the Human」(AD 93、YouTube)のプレイリストで試聴できる。聴いてみると、こちらのほうが、意図的に古楽的な要素を採り入れようとしていることがわかりやすいかもしれない。
本邦にてアンビエントなりエレクトロニカなりにおいて似たような試みに打って出るとなれば、雅楽とか能楽とかを素材として使うことになるんだろうか。でも、ディラン・ヘナーにとっての古楽のようには、それらは僕たちの日常の生活空間の中に響いていないんぢゃないか。日常的な空間には、ひょっとすると僕たちのルーツにつながるような音楽などもはやほとんど響いていないのかもしれないな。にもかかわらず使うとすれば、それは素直な意味での伝統復興とはずいぶん違った話になってくる……とかなんとか、僕が考えても意味ないっすね\(^o^)/
本日の備忘録/冗談の本気度
— No Context Humans (@HumansNoContext) April 29, 2021
何がどういうというわけではないのだけれど、ひさしぶりに余計なことを考えずに笑えたヴィデオということで。
目隠ししたまま揺れるボトルを本気で避け続けようとしているようなフリをしているだけで、実際には失敗も充分あり得るものとして、ブッつけで本番に臨んでいるというふうに見える。どこかしら演技的なおかげで、失敗を笑ったとしても失礼でも不謹慎でもないように感じる。むしろ、笑ってこそ作り手さんの意に適った反応か。というわけで、気楽に笑ってしまうのだな、たぶん。
ただし、マスクの使い方、新型コロナ感染症が猖獗極める中、感心できるものではない。顎に掛けていた目隠しとなると、目からのウイルスの体内侵入を許すことになり兼ねない。目隠しは別途用意すべきってことになるんぢゃないか。
立ち読み課題図書、その他
via.「『石川淳の世界』」(Living, Loving, Thinking, Again)。脳内の石川 淳成分が切れかけていたところ、ちょうどよいタイミング、これは買いかしら。
via. 「もやし炒めはごちそうでした。」(加藤紀子オフィシャルブログ「加藤によだれ」)。
本書関連の気になる話題がいろいろ聞こえてくる。気にしても作品の読みに大きな変更があるとも思えないのだけれど、気になっちゃうのは仕方ないよなぁ。うーん。
アマゾン、こんなものまで扱ってんのかい\(^o^)/。まぁそれでも顎のマスクで目隠しするよりはずっとよろしかろう。
「The deepest image of the Universe」のサイズ感
最近は地球を見下す夢をほとんど見なくなった。代わりに、なのかどうか、見ることが増えた(のかな?)と感じられるのが身近に大きな天体のない空間に浮かんで周囲を見渡すヴィジョン。
夢のありようは、日頃目にしているメディアのありように大きく影響されるらしい。白黒テレビの時代には色彩のない夢を見るヒトが多かったのが、カラーテレビの登場以降色彩のある夢を見るヒトが大半を占めるようになったという研究があったりするそうだ*1。ヒトの夢見る力も案外儚いものなのかなと思いもする。何といっても「人の夢」と書いて「儚い」だもんね、と書くとやけに爺ぃ臭いか。いやしかし、その伝で考えると、テレビのなかった時代はどうなるのかわかんないぢゃないか\(^o^)/
というようなあたりはさておき、夢が日常的に接しているメディアの性格に影響されるとするなら、夢の中の宇宙ももう少しスケールの小さいものであってもいいような気がする。以前よく見た地球を見下す夢でも、最近の銀河や恒星間の宇宙空間を通過してゆく夢でも、見下ろした地球や傍らを通り過ぎる星雲は、いずれも、ときに視野を覆い尽くすような圧倒的なスケールでこちらに迫ってくることがある。その際のなんとも云えない気分は、たとえば冒頭に掲げたヴィデオの映像から感じることがない。夢の中のサイズ感はどこからやって来たんだろうか。
子ども時代には、ああいうスケールの巨大なオブジェクトが夢に登場することなどなかったように思う。歳を喰って良かったと思えることは、僕の場合、困ったことにそう多くはないのだけれど、スケールのデカい宇宙が夢見られるようになったことは、まぁ数少ないその一つに数えておいていいことなのかもしれない。あらま、いやはや。
と、そんなこんなで昨日また一つ歳を重ねることになっちゃいましたとさ。
アマゾンの商品説明には、
夢研究の第一人者が、夢見る脳のメカニズムに迫る。「夢は精神錯乱に似ているということではない。精神疾患そのものなのだ」という驚くべき指摘は、脳と夢に対する私たちの見方を根底からくつがえす。私たちのもっとも身近な病(夢)の大胆な考察。
とあるのだけれど、自分の思い起こせる夢の断片を振り返るかぎり*2《「夢は精神錯乱に似ているということではない。精神疾患そのものなのだ」》というのって何ら「驚くべき」指摘だとは思えない。他所様のブログなど拝見していて、やけに理路整然と粗筋も折節正しく寓意に満ちた展開を持つ夢の記述を眺めて、そんな現実的な夢を見るなんて「第二の人生」*3の意味がないぢゃんと感じてきたクチとしては、むしろ我が意を得たりと云いたいところ。
*1:cf. 「人間の夢に『色』がついたのは、カラーテレビが普及した後だった!」(週刊現代、講談社、2017年2月4日)、「30歳以下の夢の色は80%がカラー、でも60歳以上は80%が白黒の夢...という調査結果が明らかに」(ギズモード・ジャパン、2011年7月13日)、「モノクロTV世代は白黒の夢を見るか?」(スラド サイエンス、2008年10月21日)など。テケトーなキーワードでググると他にもぞろぞろ見つかる。
*2:cf. 「象牙の門から カテゴリーの記事一覧」、主として夢の記述っぽいものをまとめてある。