鰯の頭

 これ、おもしろかった。プラシーボ効果*1そのものについては、常連諸賢には説明を要さないだろうけれど、いやぁ自転車競技の記録改善は序の口、パーキンソン病の治療やしない手術で手術の効果があがるという話に至っては、まぁ魂消たまげますね。

 プラシーボ効果への過度の期待は抱くべきではないという話は様々あって、迂闊に過信してはいけないことは確かなのだろう。けれど、鰯の頭も信心次第、信じる者は救われるというあたりも古人の知恵であったことは間違いなさそうで、信念の強いヒトというか目の座ったヒトというかにはかないっこないという日常経験からしても、過信の基準は思いの外緩いものと見ていいのかもしれない、と時々は思う。

 こういうプラシーボ効果的信念というものは、しかし、世の中をややこしくもしているぢゃないかと思うことがある。プラシーボの薬効は本来空疎なものであると同様、空疎な幻想というか御神体というかトーテムみたいなもの、要するにいわしの頭を信じることからもヒトは力を得ているに違いないからだ。たぶん、プラシーボ効果は、特殊なヒトの心理と身体の結びつきを示すというよりも、ごくありふれたその結びつきを露わにしているに過ぎないんぢゃないか。

 たとえば、体育会系部活動にまま見られた暴力的指導の類。実際に「実力校」と称されるような学校でもスポーツ科学的に見ればナンセンスな「指導」が行われていたなんてな話だって、実はその「指導」そのもののあるはずのない効力よりも、うっかりそれを信じてしまった生徒たちの心からこそ「実力」は引き出されたのかもしれない。プラシーボの偽薬で記録改善が起こるくらいなんだから、「伝統と実績」を誇る部活の「指導」となれば、大抵の10代はコロッと信じてありもしない「実力」をうっかり発揮してしまうくらいのことはあるだろう。

 どうせなら、もちっと実のあるものを、せめて実害のないものを信じて実力伸長を図ったほうがいいに決っている。インチキ薬なりインチキ指導なりで隠れていた能力が現れ出るようになるよりは、自分に備わった力を信じることが出来ればそれに越したことはない。ところが、本邦の子どもたちの自己肯定感は、国際比較で見る限りずいぶん低いのだという*2

 原因については諸説あるみたいだけれど、中には規則正しい生活の欠如を上げるものなんかもあったりして*3、自己肯定感が高いとされる国々の子どもたちの生活って日本以上に規則正しかったっけか、と訝ったりする。本邦で謂うところの「規則正しい生活」から生まれる自己肯定感といったもの、実は集団的標準に準拠した生活に他ならず、実のところ自己への配慮を喪失したところにあるんぢゃないか。こちらがそういうのと無縁の生活を送っているからなのかもしれないが、集団に共有されている「規則正しい」生活に合致できている自分は正しく認められるべきで、そこからハズレているヤツはカス、というような他律的で排他的なものなのではないかと見える。で、そうそうついては行けない基準を掲げれば、そこからついはみださざるを得ない者はますます自己肯定感を失うことになる。むやみに信じて必死になってついていったものだけが、偽薬的「規則正しい生活」を信じることで自己肯定感っぽいものを得る、というような具合ぢゃないのか。アンケートを採れば「オイラはスゴい」と答えが返っては来るだろうが、十全な自己肯定感とは縁が遠いものぢゃないんですかね、そういう手合は。

 似たような話は、政治的信条やカルト的な確信などにもあれこれ当てはまるに決っているが、書くのは面倒臭いし、書けば面倒臭いヒトビトを呼び寄せることになり兼ねないので、コレを省く。

 

 非偽薬的朗らかな自己肯定というようなものが今日只今の文明において可能なのかどうか、なんちゅう面倒臭いことをついうっかり考え込んでしまうようなら、まだ鰯の頭を拝んでおいたほうが賢明だということなんだろうか。厭ぁな世の中ですわねぇぃ\(^o^)/。

 

 そういえば、本書中にもプラシーボ効果についての言及があったのだった。科学的に率直であろうとするあまり、プラシーボ効果を蔑ろにしているんぢゃないかというような現状批判、読んだ当初はニセ科学流行りの当今、危うい考え方ぢゃぁないかと思ったのだけれど……。また読み返してみっか。

 あ、Kindle版も出ている。逆説的なタイトル通り、全体としてはおもしろかったぞ。