本日の読書感想文/見晴らしのいい自己変革、みたいな。

 以前、「暑中お祝い申し上げます」末尾で読書感想文についていくらか思わせぶりなことを書いちゃったんだけれど、アレの続きみたいな話を少々。何だか時宜を完璧に逸している感じもあるけれど*2、こういうのは思いついたときに書かないと絶対に書かないまんまになっちゃうってことでまぁ。

 

 結論を先に書いておくと、少なくとも夏休みの宿題として課されるところの、毎日新聞主催青少年読書感想文コンクール的感想文においては、単に心に残っただのおもしろかっただの愉しかっただのといった感想が求められているのではなく、読んだ結果生じた読み手のものの考え方・見方の成長変化を提示できるかどうかが評価のポイントになっているのではないか、そのへんが、巷間に云われる「本と直接的には関係のない(自分の)話をメインに置く」といったコツが語られる由縁でもあるんぢゃないか、とかなんとかいったあたりになる、かな?

 

読書感想文――読書を通した「自己変革」の物語

 自分で全部説明するのは面倒臭いので、まずは他人様ひとさまの議論を引いておく。

 これを読むと、教育界(感想文業界?)が、子どもたちに何を求めているかがよくわかる。二つの感想文には同じ特徴がある。第一に、読書体験と「自分の生活体験」を重ね合わせていること。第二に、読書によって自分は変わった(変わろうとしている)と述べていること。これは同コンクールの入賞作すべてに共通した特徴だといってもいい。

 「読書感想文」は書評ではない。あくまでも読書という「体験」を題材にとり、「私」を主人公にして綴られた、学校作文=私ノンフィクションの一バージョンなのだ。この年の入選作を集めた『考える読書』の巻頭で、全国図書館協議会事務局長の笠原良郎はこう述べている。

 私たちは、この感想文コンクールの事業を「考える読書」の運動ととらえています。本をただなんとなく読むのではなく、本を読むことで考え、考えることでさらに読みを深めることが、大切だと考えているからです。「こひつじクロ」を読んだ小学校二年生のY君(引用者註・原文では実名)*3は、「一人ぼっちのクロの大へんさやさびしさやかなしさ」を理解し、「いつも自分の力で考えたり、こうどうしたり」するクロからとても大きなことを学び取っていきます。Y君はこの本を読む前と読んだ後では大きな自己変革を遂げています。まさに「考える読書」の成果です。

「本を深く読むということ」

〈Yくんはこの本を読む前と読んだ後では大きな自己変革を遂げています〉という部分がキモである。ちょっと考えてみよう。「自己変革」につながるような読書体験が、そんなにゴロゴロ転がっているものだろうか? まして自ら選んだ本ではなく、与えられた本(『こひつじクロ』はこの年の課題図書である)を読んだくらいで。いや、彼らが嘘八百を書いているという意味ではない。ほんとに自己変革をとげる子どももいるだろう。しかし、全国の子どもたちがいっせいに同じ本を読み、いっせいに自己変革をとげたとしたら、そっちのほうがよほど不気味だ。

斎藤美奈子文章読本さん江』(ちくま文庫、pp.267-8)、強調引用者

 実際に入選作に目を通してみると《第一に、読書体験と「自分の生活体験」を重ね合わせていること。第二に、読書によって自分は変わった(変わろうとしている)と述べていること》の2条件はほぼ間違いなく評価基準になっているように見える。とくに第一のポイントは、「本日の村上春樹/日本近代文芸批評と読書感想文」や、とくに「本日の読書感想文/図書館・図書室では、踊ったり飛んだり跳ねたりバク転したりサッカーしたりしてはいけません」ですでに触れたことでもある。あそこで語られていた俗っぽくて怪しい感想文の裏技みたいなものも、実は正攻法として捉え直せることもわかるだろう。

 「優秀」作品を読む限り、《読書という「体験」を題材にとり、「私」を主人公にして綴られた、学校作文=私ノンフィクション》を書くという捉え方は、書くコツなんかぢゃぁなくて、少なくともコンクールに向けた読書感想文の定義といっていいということだ。だって、ほとんどがそうなっているんだもんね。でも、それは読書感想文コンクールに向けての「傾向と対策」が徹底した結果生まれたものだというよりも*4、たぶん読書という営みの性格からして、まじめに読んで書いちゃうとそうなっちゃうという体のものなんぢゃないか。

 

そういうわけで、これって別に特殊な話ぢゃないよね

「自己変革」というと何やら大仰で、感想文を書くことが何だか自己啓発セミナーのカリキュラムの類みたいに感じられて来なくもない*5。読書感想文コンクールの「優秀作品」に少々馴染んでみればわかることとして、たしかに選ばれた作品には何ほどか自分の変化が語られていることは確かなのだ。このあたり岡崎武志がチャーミングな比喩で語ってくれているあたりなら、なるへそ、っと感じるヒトも増えるだろう。

 そんなこと*6を知ったところでどうなるというものでもないが、知る前と知った後では、世界が少し違って見える。天上につながる長い階段があるとしたら、一段上に昇って、その分外界の見晴らしがよくなった、と言えばいいだろうか。だから、学生時代より中年になったいまのほうが、見晴らしがよくなっただけに、もっと上に昇りたい、もっといろんなことを知りたいという気持ちが強くなっている気がする。

岡崎武志『読書の腕前』(光文社新書、pp.25-6)

「見晴らしがよくなった」というあたり、感想文の水準にずいぶん接近した表現になっているんぢゃないかと思う。というか感想文を書く書かないによらず、気に入った本ってそういうところがあるでしょ? で、そのよくなった「見晴らし」を具体的な言葉にしたものが実は読書感想文のコアになっていると、「優秀作品」に目を通してみるとわかって來る。そして、「見晴らしがよくなる」とはものの見方が変わることであり、ささやかではあっても「自己変革」の一つには違いないかもね。

 そもそも、なにがしかの知的営みにおいて自己の変化/成長そのものが重視されること自体は突飛なことではない(んぢゃないか)。書かれた内容との格闘を経て自分のありように変化がもたらされてこそ、読書は意味のあるものとなり人生に資するのだという見方は、むしろ、読書論や教養論にお馴染みのものだろう。下手に馬齢を重ねちゃうと自説強化のためにしか本を読まないなんちゅう爺ぃ*7が出来上がっちゃうわけだけれど、そういう爺ぃが馬鹿にされるのも同様の理由によるんぢゃない?

 おまけに、そもそものそもそも読書に限らず、何かに心の底から納得するような経験は自分が変わることをどうしても促すものではないか。手の届く範囲*8から拾ってみても、こうした考え方云い方にすぐさまたどり着けてしまう。

 上原先生のゼミナールのなかで、もうひとつ学んだ重要なことがあります。先生はいつも学生が報告をしますと、「それでいったい何が解ったことになるのですか」と問うのでした。それで私も、いつも何か本をよんだり考えたりするときに、それでいったい何が解ったことになるのかと自問するくせが身についてしまったのです。そのように自問してみますと、一見解っているように思われることでも、実は何も解っていないということが身にしみて感じられるのです。

「解るということはいったいどういうことか」という点についても、先生があるとき、「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」といわれたことがありました。それも私には大きなことばでした。もちろん、ある商品の値段や内容を知ったからといって、自分が変わることはないでしょう。何かを知ることだけではそうかんたんに人間は変わらないでしょう。しかし、「解る」ということはただ知ること以上に自分の人格にかかわってくる何かなので、そのような「解る」体験をすれば、自分自身が何がしかは変わるはずだとも思えるのです。

阿部謹也『自分のなかに歴史を読む』(ちくま文庫、pp21-2)

 あるいはまた……。

 よくアンケートなどで、「あなたの人生を変えた一冊の本」という質問がある。

 そう問われるといつも反発する。本の一冊くらいで人生が変わってたまるか。

 とりあえずそうつぶやいてみるのだが、本当を言うとぼくの人生を変えた本は実在した。

 その本のことを秘密にするつもりはないけれど、それについてきちんと説明するには相当な量の文章を書かなければならない。ちょっと覚悟がいるくらいの量。アンケートの答えのような狭い場所に納まる話ではない。そういう大事なことを気安く聞いてくるから腹が立つのだ。

 読書を習慣とする者にとっては、一冊の本との出会いが人生を決める契機になることがある。ある土地に旅したことで、ある人に会ったことで人生が変わるのと同じだと思う。あの時にあの本を読んでいなければ、たぶん自分は今とはずいぶん異なった道を歩んでいただろうというような本に出会うことがあるのだ。

池澤夏樹「いちばん恐ろしい本」、岩波文庫編集部編『読書という体験』(岩波文庫、pp.16-7)

 というわけで、読書をはじめとするなにがしかの知的な経験を持つことが「自己変革」みたいなものに繋がるというのは決して突飛な考え方ではないんぢゃないか。むしろ、深い知的経験や読書経験においては、「自己変革」はあるものと期待されていると考えていいんぢゃないか。でもって、要するに良き読書経験を通じて得た「自己変革」を語ることが読書感想文だってことになるわけだ。まとめてみると割と陳腐で当たりきシャリキって感じなんだけれどさぁ。う~。

 このへんを少し斜に構えて説明しようとすると、「本日の村上春樹/日本近代文芸批評と読書感想文」「本日の読書感想文/図書館・図書室では、踊ったり飛んだり跳ねたりバク転したりサッカーしたりしてはいけません」で触れた感想文の書き方の裏技みたいなものが出て来ることになる。あぁいう伝説化したような書き方――本の内容と関係がないかに見える(自分)語りを加える――にもそれなりの根拠があるわけだ。そのへん簡単には上二つのエントリでも触れているけれど、少しばかりていねいに語り直すと今回の記事みたいな具合になる。

 

 こういうわけで、見晴らしがよくなるというほどのことであれ「自己変革」にかかわるとなってくると、やっぱり読書感想文対策の第一歩は選書ということになる。で、なる以上は書いておくべきなんだけれど、例によって例のごとく面倒臭くなって来ちゃったので、今回はこれでおしまい。

 

文章読本さん江 (ちくま文庫)

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読書の腕前 (光文社知恵の森文庫)

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  • 作者:岡崎 武志
  • 発売日: 2014/10/09
  • メディア: 文庫
 
自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)

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  • 作者:阿部 謹也
  • 発売日: 2007/09/10
  • メディア: 文庫
 
読書という体験 (岩波文庫)

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  • 発売日: 2007/02/16
  • メディア: 文庫
 

*1: 「本と出会うたびにちょっと笑顔になる」というのだって、「自己変革」といえば「自己変革」といえないわけぢゃないよなぁ。

*2: とはいえ、つい最近、はてダでは何かのお題として「読書感想文」が出たらしい。何か今年の特殊事情でタイミングが変わったりしたの? って、まさかねぇ。

*3: 斎藤美奈子による註。

*4: 「ない」とは限らないけれどね、もちろん。

*5: というか、実際のところある程度は似たような気配ナキニシモアラズかもなぁ。でもそういうとこいらへんはまた別の折に追々。

*6:引用者註:新聞社の伝書鳩を使った原稿や写真の送付のこと。昭和20年代半ばあたりまで行われていたのだそうな。へぇ~。

*7: ワシぢゃ、ワシぢゃぁ\(^o^)/

*8: フィジカルな意味で\(^o^)/