自由な感じを構成する

 当たり前の文章ではない文章、変な文章を書くというのも意外に面倒だったりする。たとえば、ちょっと下の文章を見てほしい。

 窓の外では虹色の雨が降っている。天気予報は綿菓子日和のはずだったのに。空気が七色に染まる。レモンやメロン、ソーダ、葡萄、苺味のキャンディ。降っては地べたにたたき付けられ、バチバチと砕かれる。小さな破片は積もっていき、辺り一面を虹色に塗り替えた。きゃらきゃらと飴の声が聞こえてくる。何を話しているのだろう。交ぜてくれるかな。窓辺で彼女らに尋ねる。あなたたちは何処から来て何処へ帰ってゆくの。空気が冷めて凍っていく。大地は色を失い、視界は瞬く間に薄灰に変わった。足元が崩れ、身体は闇に落ちた。

 電車の中、向かい側に座る男の子の膝の上に飴入りのガラス瓶が置かれている。嬉しそうに瓶を振ると、光が反射して飴玉がきらめいた。瞬間、反射した飴と脳がリンクして想像力もきらめいた。2秒程で虚構の映像が流れ過ぎていく。

 想像力はふとしたことではたらき、その度に空想の世界へ出掛けるのである。機会が訪れればいつでも想像と繋がることが可能なのだ。

 僕が担当したものではないのだけれど、美術系予備校のとある授業、400字の「小論文」で「想像力」という主題の下書かれた答案。たぶん、「想像力とは何か」みたいな論文論文したものでは対処のしようがないと踏んで、自分の想像を想像力発揮の実例みたいに扱って話を構成しようとしたんだと思う。字数の制約を考えると、それも悪い戦略ではないと思う。でも仕上がりはといえば、それほど自由に想像を広げて書いたようにはなかなか見えないんじゃないだろうか。仮に自由に想像を広げて書くという場合でも、実は素朴な想像に基づいて言葉を連ねるだけでは「自由」な感じはなかなか得られない。やはり何か言葉の工夫みたいなものが「自由な」感じを構成するのに必要なんじゃないだろうか。

 答案としての適切/不適切を離れて、ちょっとそのあたりを考えてみたい。

 

 パッと目につくのは、細かな言葉の選択と組み立て。「虹色」など、率直にいって安っぽい。7色という数も何か色数を問われるとだれもが条件反射的に答えそうに思えなくもない。「綿菓子日和」もそう。少女マンガにだって清原なつのの傑作『ゴジラサンド日和』なんてのがあるくらいなのだ。綿菓子では軟派がすぎるんでないかしらん。想像力を発揮してみせた実例をもって、想像力の説明に代えようと考えたこと自体は悪くないのかもしれない。でも、その中身がだれもが簡単に想起するいわゆる少女趣味的な言葉で綴られているとどうなんだろう。

 「綿菓子日和」だと綿菓子+日和であるのに対して『ゴジラサンド日和』なら、ゴジラ+サンド+日和というわけで約1.5倍の発想量が含まれている(^_^;。そういう捻りを考えて使えば、「絶好の綿菓子刑務所慰安会日和」とか? ってこれはイマイチでありますがぁ、仮に少女趣味の通俗的な類型にはまりかねない語彙でも、いくらかは通俗性を免れるんじゃぁないかしら。

 それに、キャンディが地面に落ちて砕けるというのは、まんまキャンディ。キャンディを高いところから落とせば、たぶんホントに砕けてしまう。これは特定の現実を頭の中で思い浮かべただけであって、いかにも想像の産物って感じはしない。

 でもたとえば、キャンディが地面に接する瞬間に、どろりとスライム状の物体に変化したり、着地する寸前に突然羽毛に変わってまたふわりと上空に舞い上がるとか、着地したとたんにちょうど降り始めた雪みたいに地面に溶け込んでゆくとかすると、まんまじゃないキャンディになる。現実の法則のまんまを想像しても、それは想像力を示す典型的な話にはならないでしょ?

 説明の代わりに自分の想像そのものに語らせるというのであれば、想像の典型的な性格をあらわにしてくれるような描き方が必要になってくるんじゃないだろうか。

 ここでちょっと思いつき的に、田村隆一の「幻を見る人」*1の冒頭を引いて見る。

空から小鳥が墜ちてくる
誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
野はある

 

窓から叫びが聴えてくる
誰もいない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
世界はある

 たとえば、「空」と「小鳥」だけならほんわかした牧歌的な感じになってしまう。でもそこに「墜ちる」*2「誰もいない」「射殺」という言葉を持ってきたことで、この冒頭の不吉な迫力は増している。あるいは「誰もいない」んなら「射殺」なんぞホントはできんのに、そいつを無理やりやっちゃうのが詩的想像力なのかもしれない。いずれにしても、「墜ちてくる」という垂直に対して、「叫びが聴こえてくる」という水平を組み合わせることで、不吉なイメージがどばぁーっと空間的に広がってゆくという効果もあげている。

 ここで学ぶべきものは、要するに一つの雰囲気になじむ言葉ばかりを並べるのではなくて、性格の異なる言葉を配することで言葉には、立体感というかメリハリというか迫力が出てくるということ。色彩でいえば補色の効果みたいなもんかなぁ。

 西脇順三郎は「牧場に乳牛ちちうしがいても詩ではない。乳牛が床屋の中を駆け抜けてゆくと詩になる。花を見て美しいと感じても詩ではない。あれは炭素と水素と酸素の塊だと思いながら眺めると詩になる」といった旨のことを述べている*3。ただ一通りの色調で言葉を組織してしまうのではなく、その色調を裏切る要素を盛り込む、対置する工夫が必要だということだろう。想像したことは想像したままに書く、というのでは、読み手を惹きつける言葉の造形にはならない。意識的な工夫がどうしても必要になってくるというわけだ。

 

田村隆一詩集 (現代詩文庫 第 1期1)

田村隆一詩集 (現代詩文庫 第 1期1)

 

*1:田村隆一 幻を見る人」でググれば、たぶん全文掲載しているページも見つかるはず。

*2:「落ちる」ではなくて「墜落」の「墜」を用いているあたりも効果的じゃないかしら。

*3:ここいらへんあやふやな記憶に基づいているので、まんま信用しないでね。でも、「遠いものの連結」といった云い方なら、西脇作品に親しんだ人には覚えがあるはず。