本日の備忘録/音の記憶、言葉の記憶

「雀百まで踊り忘れず」、「白鳥死ぬまで踊り忘れず」。

 あちらこちらでいろんな出所からの映像が取り上げられているから、すでにご存知の方も多いのかな。より新しい情報を含むヴィデオだから、他の報道類のヴィデオでご覧になった方にもひょっとすると有益かもしれないということで、これを選んでみた。といっても、外つ国の老バレリーナ身元情報を有益だと感じる方、常連閲覧諸賢にいらっしゃるわけないかぁ\(^o^)/

 関連して思い浮かべるのが「弔鐘の記憶 ある患者家族の手記」(日経サイエンス)という、この文章そのものもこちらの胸に迫るものになっているのだけれど、その末尾近く、以下の話だ。

……だが私は彼女の顔の表情から,彼女がそこにいて私を認識しており,そして何よりも,この情熱的な音楽作品でマーラーが語っていたすべてを理解していたことがわかった。マーラーは彼女に理解されていた。科学者によると,音楽鑑賞はアルツハイマー病で最後まで損なわれずに残る認知のひとつだ。音楽を処理する脳領域が健全さを残しているためだという。

 たぶん、元バレリーナが「白鳥の湖」を耳にしてかつての振り付けを思い出し得たのも同じか同じような脳領域の働きによるのだろう。しかし、それにしても一体どういう理由で「音楽を処理する脳領域」は最後まで健全さを残すようになったのだろう。普通、音楽は文化的なものであって、生得的なもの、生物学的な生存に不可欠なものとは考えられないだろう。ヒト以外の生物種が自ら奏でる音楽といったものは、ある種の比喩としてならともかく、現実的なものとは考えにくい*1。ヒト以前からそのような脳領域が何の活動もすることのないまま生物に備わっていたのだろうか。そうした脳領域の機能が音楽を生み出す機縁となった……。それともヒトが音楽を生み出した後になってそのような領域が生まれたのだろうか。まぁ、素人が考えてわかる話ぢゃないか\(^o^)/

 あるいは、音楽の、もしくは音そのものの記憶とは何なんだろう。空気の振動しない脳内の神経細胞活動のみによる音楽。たぶん、楽曲なりその一節なりを思い浮かべようとするときには、実際に音楽を耳にする折と類似した神経細胞の活動が観察・観測されるに違いないのだろうけれど、たとえば生まれつき耳が聞こえないヒトの脳に、音楽を聞いている状態のヒトの脳波か何かを導入した場合、ヒトは音楽を聞く経験を持つことが出来るのだろうか。

 

 ヒトと音とのつながりを考えるとき、ついでに触れずにはいられない問題に言葉とヒトの関わりがある。とくに言葉の音律、音韻の問題、「音韻の詐術」とかなんとか称した未復旧エントリで取り上げた心理学実験のことだ*2。ほぼ同義であるような警句の類を、語呂の良いものととくに語呂に配慮しないものの二通り拵えてヒトビトに読ませてみると、語呂の良いもののほうに説得力を感じたというヤツだ。言葉の音律が説得力を持ってしまうとは一体どういうことだろうか。あるいは音律によってもたらされる説得力とは一体どういうものなのだろうか……みたいなことを書いたのではないかと思う。

 話のネタとしては興味深いものではないか。言葉の音律はもともとは記憶の便宜のために用いられるようになったのだ、というような説明が旧来なされて来た。書き言葉のない時代の共同体では伝達の手段としては音声言語しかない。距離や時間を超えた伝達が間違いなく行われるには、伝言ゲームにならない工夫が不可欠となる。そこに音律の意味も認められる。何のことはない、「なんと710年大きな平城京なくよ794年平安京」である。このへんの知識の更新は馬鹿にできないはずだ。記憶の便宜のみならず、説得力が加わるとなれば、中央からの命令の類にもなにがしかの力が加わることになるかもしれない。あるいは、散文が論理性によって獲得していたものを、韻文は音律によって獲得していた、みたいな具合に考えることが出来るかもしれない。散文としては筋の通らないような韻文の言葉遣いも、何となく理解可能なもの、心打つものとして捉えられるのも、音律と説得力のつながりの賜物なのかもしれない。

 

 しかし、ではなぜ言葉の韻律が説得力を生み出すのか。この点については、今井むつみ『ことばの発達の謎を解く』(ちくまプリマー新書)冒頭に示唆的といえそうな話が登場する。

 赤ちゃんはこれから学んでいく母語がいつごろからわかるのでしょうか? もっとも「母語がわかる」というのは曖昧あいまいな言い方で、答えようがないかもしれません。言語の学習には、母語で使う音の学習、ことばの意味の学習、文法の学習など実にさまざまな要素があります。その中で、赤ちゃんが最初に学習するのは母語のリズムとイントネーションの特徴です。どのくらい早いかというと、なんと赤ちゃんがお母さんのおなかの中にいる時からはじまるのです。赤ちゃんは羊水という水の中にいます。水中にいると、外で何を話しているかよく聞き取れませんね。でも、音が高くなったり低くなったりするのはわかります。また、例えば「ダダダ、ダダー、ダダダダ、ダダッ」といったリズムは水中でもよく伝わります。赤ちゃんは自分の置かれた環境、つまり水の中でも、できることをはじめているのです。

 実際、生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の母語母語でない言語を聞き分けることができます。日本語の環境にいる赤ちゃんに英語や中国語を聞かせると、日本語とイントネーションやリズムのパターンが大きく異なることから、それが自分の聞き慣れている言語ではないことにすぐ気づくのです。また、日本語でだれかが話しているところを録音して、それを逆再生するとリズムやイントネーションのパターンが違ってしまいますよね。生まれたばかりの赤ちゃんはそれもわかります。普通に日本語で話している音声と、それを逆再生した音声を聞かせると、赤ちゃんは普通に話している音声のほうに強く反応し、そちらを聞きたがります。

今井むつみ『ことばの発達の謎を解く』(ちくまプリマー新書)、pp.17-8

 ことばの「イントネーションとリズム」とは、ことばの所謂「音律、音韻」に他ならないだろう。かつて胎内でも耳にし心に強く植えつけられた母語の音律。ちょうど母胎の中でずっと体感し続けて来た母親の心拍を感じると幼児が安らぐのと似て、胎内での原初の言語体験を通して身につけた母語の、とくに特徴的な音律に接すると、何か安心感に似たものを覚え、そこに説得力を感じてしまうことがあるのかもしれない。このあたりは素人のトンデモ仮説に過ぎないけれど、床屋談義レヴェルくらいなら通じやしませんかね^^;、ダメかなぁ。うーん。

 

 「イントネーションとリズム」とはまた、メロディとリズム、ダンスという身体表現を支える重要な要素でもあるだろう。老バレリーナのことを思い起こしながら、「ダダダ、ダダー、ダダダダ、ダダッ」は、ヒトの生の原初から終焉まで魂の奥底で音もなく鳴り響き続けているのだな、などとなんだか陳腐なことを考えつつも、ちょいと泣いちまったぜぃ\(^o^)/

 

 ところで、僕の魂に響き続ける「イントネーションとリズム」とは何だろうか? ということになると思い当たるのは、これになっちゃうのかも。そのことをどう評価するかはさておき、実際に子ども時代、強力に脳味噌に刷り込まれちゃったんだから、まぁ仕方ありませんね\(^o^)/

 「象牙の門から」カテゴリーの記事ではまだ触れたことがないけれど、この大橋巨泉*3のセリフには今でもときどき夢の中で出会うことがある。語呂がいいといえばいいのだろうけれど、果たしてこの語呂の良さはどういう説得力を僕の心の中で発揮しているのだろうか。

 

ことばの発達の謎を解く (ちくまプリマー新書)
 

 何だか書影のサイズがデカくなっちょる。うー。何か設定に問題があるのかしらね?

 

 僕が読んだのは第二版。第三版との異同は未確認。でもおもしろい話ではあるから、生き延びてるんぢゃないかなぁ。

 

 

*1: 比喩的な意味での「歌声」の類が求愛行動と結びついたものとしてある、みたいなことは考えられるかもしれないけれど、その場合の「歌声」は、それ自体生得的なものであって後天的に身につけたものが長らく脳領域に記憶されるというようなタイプのものではなかろう。

*2: たぶん『影響力の武器 第2版』で取り上げられていたヤツ。ひょっとするとその『実践編』だったかも。今なら『戦略篇』なんかもあるらしい。いやぁ。いずれにしても、今どちらも手許に見当たらないので確認できない\(^o^)/。

*3:cf. google:大橋巨泉