比較対照ってやっぱ重要だと思うなぁ

忘れられがちな対照という作業

 ものごとを比較して捉えるというのは大事なアプローチ。でも、意外と使いこなしているヒトって少ないんじゃないだろうか。対概念に気をつけて評論を読むなんていうのは、受験国語をクグッた経験のあるヒトなら覚えのあることでしょ。でも、自分で何かについて考え始めるとき、比較対照の作業を試みるってことがパッと頭に浮かんで来ないってヒトも多い。すでに書かれたものについて論じようなんてなときには、そういうことができるヒトでも、目の前に言葉がない場合、つまり造形や映像、音楽を目の前にするとき、そういう発想が出て来ないってこと、多くないかなぁ。

 たとえば、次のCMの特徴をまとめるとしたら、どんなふうに考えるだろう?

SONYのCM

 もちろん、SONYのCMのみを見てホイホイと言葉が綴れるヒトもいないわけではないと思う。でも書かれたモノを改めて見てみて、すんごく主観的な感想文になってないかなぁ。色トリドリのボールが弾んで楽しいとか、バックで流れる歌がチャーミングとか。別にそれで困るわけでもないって場合も多いとは思う。でも、もちっと自分と趣味の違うヒトにも何がしか通じる言葉を綴りたいってときには、何かと比較して考えるって作業があっていい。

 いちばん簡単なのは一般的なCMと比べるというやり方。タレントが出てきて売り込みのメッセージを連呼するという日本ではありふれたCMの作り方とは全然違うことが見えてくるだけでも、特徴説明のための糸口はいろいろ開けてくる。でも、もちっと細かな性格を捉えようと思ったら、具体的な比較対象を見つけてみるといい。

 

具体的な比較対照を考える

 たとえば、次のようなCMと比較してみるとどうだろう?

ToshibaのCM

 どちらもLCD、液晶ディスプレイのCMだという点は同じだけれど、ずいぶん趣は違うよね。そういう違いを言葉にしてみると、実はそれぞれの特徴をまとめる手がかりが単独で見ていたときよりずっと捉えやすくなるんぢゃないかしら。たとえば、こんな感じ。

   SONYのCM   ToshibaのCM 
空間  屋外  屋内
時間  直線的  円環的
音楽  生音による  電子音による
メッセージ  色  技術

 思いつき的に書いたものだけれど、それでも2つのCMの性格がよりはっきりしてきたって感じはするんぢゃないかなぁ。対照的なところを言葉にできると、話はさらに先へ進められる。開放的な印象と閉鎖的な印象は、主観的な感想を超えて、ひょっとするとCM制作者側の狙いの読みにまでつながるかもしれない。

 自然光の下、(相対的に見れば)自然なサウンドにのせて、製品の色彩再現をアピールするCMと、技術を駆使した映像と音を用いて、企業のテクノロジーの優越をアピールするCM、みたいなところにまで話を持って行くのもずいぶん易しくなってくるかも。

 

さらに比較を進めると

 さらに異なった製品を扱うCMと比較して考えてみることだってできる。たとえば、次の2つのCMはともに自動車のCM。それぞれにずいぶん印象を異にしているけれど、上のLCDのCMと対照するとまとめて捉えることだってできる。

AudiのCM

HONDAのCM

 製品がCMの間中ずっと出ているAudiと、最後の最後まで登場しないHONDA。その他アレコレ違いはあるけれど、どちらも視聴者に謎を提示して、想像なり謎解きを誘導するようなところがある。そういうところに目を向ければ、上のSONYToshibaのCMと比較対照して、自動車のCMが視聴者の、より理知的なところに訴えるのに対して、LCDのCMはより感覚的なところに訴えかけようとしているというふうに見えてくるかもしれない。

 もちろん、そうした比較は相対的なものでしかない。ここで取り上げた自動車のCMだって感覚的な愉しみに満ちているし、理知的な発想なしにLCDのCMが作られたなんて絶対に考えられない。だから、これはあくまで相対的な話なのだ。しかし、言葉で事物の絶対的特徴を捉えることができるような詩的言語の達人ならぬ僕らにとって、これは手放せない言葉の使い方だろう。言葉は「ことのは」、事の端に過ぎないともいえる。事そのものにとって代わることができない。だとするなら、相対的な語りにとどまるとしても、せめて事の方へと人の目を向ける力くらいは何とか見出してみたい。そういう意味で比較対照という見方、語り口は単なる技法に留まるものではないかもしれない。

 

 比較して捉えるって、すごく基本的なものの見方の一つだと思う。その割に意識的に比較対照が行われていないってこと、ないだろうか? 少なくとも受験生の小論文なんか見てるとやってねーだろテメーら、と思えることが多いんだよな。課題文読解から意見を起こすときはまぁまぁのヤツでも、写真やヴィデオ、音楽を素材にした、つまり言葉のとっかかりがない問題だと覿面にダメダメになっちゃう.。そういうのを見てるとそう思わざるを得ない。

 アートを論じるとき、その歴史を正確に知ることが求められるのも、ただの権威主義スノビズムなんかぢゃぁなくて、一つの作品に対しての複眼的な比較対照作業が可能になるからだってことがある。知識を動員する論じ方って嫌うヒトも世の中には多いけれど、それにまぁ実際のところスノビズム臭紛々たるアート評も世の中には蔓延ってるかもねと思わないでもないんだけれど、そういう意味では、自分が考察をめぐらせてみたいと考えている領域について、歴史にかぎらず幅広い教養を持つべく心がけることは無意味なことではないんだと思うなぁ。まぁ僕はそこいらへん至って不勉強なんでございますがぁ\(^O^)/。

 

論理的な考え方 伝え方:根拠に基づく正しい議論のために

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