何となく、柳橋/べつにおせちに掛けたわけぢゃぁないですがね。
かんざしがあしらわれた欄干。かつて界隈が花街だったことに由来するデザインということだろう。写真は11月。
船宿が神田川沿いに並ぶ界隈。同じく11月。
昨日大晦日には、どの船宿も閉まっていて、界隈には人通りもほとんどなかった。
30日深夜にtwitpicにあげた柳橋の写真がごく一部で好評だったのと、花火問屋の火事の報道が少々気になったこともあって、大晦日、仕事帰りに界隈を歩いてみた。出かけてみれば、さすがにわざわざ覗くのも憚られる気持ちが湧いてきて、火事の跡は結局見なかったし、別に何がどうといったすごい
神田川が隅田川にそそぐところに架設されたので、はじめは「川口出口の橋」と呼ばれた。近くに幕府の矢の倉があったのにちなみ、矢の倉橋・矢之城橋と呼んだともいう。柳橋は正徳(1711〜15*1)頃からの呼称らしい。橋名の由来には、1*2 柳原堤の末にあるので、2 矢之城を柳の字に書きかえる、3 橋畔の柳にちなむ、の諸説があって、真説は不明。3の説は単純だが、はからずも本当の由来かもしれない。創架年代は、『
文政町方書上 』によると、元禄11年(1698)で、同年11月18日起工し、12月26日竣工した。鉄橋に架橋は明治28年(1895)。現在の橋は昭和4年(1929)完成である。江戸時代、橋畔は船宿が並んで賑わった。幕末・明治以降、柳橋は花柳界として名高い。春の夜や女見返る柳橋――正岡子規がこの句を残したのを始め、柳橋は文人にとりあげられた。また、小林清親ら画家も柳橋を画題にした。
ちょっとおさまりの悪い表現とか括弧の使い方もあるけれど、これが台東区教育委員会の立ててる説明看板の説明。子規の句も、さてこれはどんなもんだろうか。
もういっちょ、えっとどこが立てたんだっけか、町名としての「旧浅草柳橋」の説明。
いくつかの町が整理統合され、昭和9年(1934)に誕生した。町名の由来は、神田川の隅田川合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのにちなんだ。
柳橋の名は、江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んで賑わっていた。ひところは、料亭および芸者衆も多く、隆盛を誇ったものである。
「柳橋」は、元禄11年(1698)に初めて架けられた。神田川が大川にそそぐところにあったことから、その当時は、
川口出口之橋 と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋と呼ばれた。現在の柳橋は、昭和4年に架けられたものでローゼ形式の橋である。
こちらのほうがわかりやすいけれど、「柳橋」という名前の由来が、上のには3つあったうちの1つだけを取り挙げ、定説みたいに扱っちゃってる。こういう看板って、そりゃぁ熱心に読む人は少ないのだろうけれど、ちょっとあれだなぁ、というところか。「ローゼ形式」というのはアーチ橋の一種*3。これも説明があっていいところぢゃないかしら? そうでもない?
柳橋には、実はさらにもう一つ、橋の設計デザインについての説明看板が出ているのだけれど、それまで引いてしまうとご自身で訪なってみたい方には興醒めかも、ということで引かないでおく。上の説明看板とは反対側の橋畔にある。多少気づきにくいかもしれない*4。
両国橋から眺めた柳橋。どうもブレちゃうんで、僕のコンパクトデジタルカメラでは最高のISO1600まで感度を上げて撮ってみた。上げるとフィルタが切れてノイズだらけの画面。結局ブレボケ写真と変わりないですな。はれほれ。
「柳橋物語」、なかなかにぐっと来ますぜぃ。