両国駅の三連アーチ

 アーチといえば 、散歩コースにもう一つ忘れてはならないアーチ窓の建物があったのだった。

 当たり前に眺めすぎていたせいか、すっかり頭から消えていた。いやはや。

 往時のターミナルとしての面影はなく、各駅停車しか止まらない凋落した感じの駅舎。でも、よく見ると時計周辺やや窓の下の洗練されたレリーフに唸る*1。そういう仄かに往時を偲ばせるところに、看板建築的な下町モダンの切なさがあるって感じなのかなぁ。

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生した。駅舎は倒壊しなかったが、延焼により焼失した。高架橋も大きな被害を受けて、復旧して運転を再開したのは10月9日のこととなった。バラック立ての仮駅舎を建設して暫定的に営業を行っていたが、増大する旅客・貨物需要を捌ききれなくなったため、1929年(昭和4年)12月30日に新駅舎が営業を開始した。これは2010年現在供用されている駅舎である。この時点で行き止まり式の2面4線の構造となった。駅舎の面積は3,034 坪(約10,030 平方メートル)であった。当時は乗車口と降車口が分離されており、外から駅舎に向かって左側に乗車口、右側に降車口があった。内部には出札口、2等待合室、3等待合室、手荷物カウンターなどが設置されていた。

両国駅 - Wikipedia hatena bookmark*2

というわけで、やはりこれも関東大震災を契機に作られたもののようだ。

 読んでみるといろいろ浮沈のある歴史をたどってきた駅だということがわかる。

 元々隅田川の両岸を両国と称し、そこに架かる橋を両国橋と呼んでいた事から、橋の近くにある駅を両国橋と名付けたものであったが、次第に隅田川東岸のことを両国と称するようになった。駅名もまた、一般には単に両国駅と呼ばれる事が多くなっていた。そこで、1931年(昭和6年)10月1日に正式に「両国駅」へ改称した。

 この頃、房総方面にあった全部で94の駅の中では、東京側のターミナルであった両国駅は乗降客数と収入の面ではぬきんでた1位であり、貨物取扱量も第2位であった。東京の鉄道駅の中では、東京、上野、新宿、横浜、新橋に次ぐ第6位の取扱収入で、当時は渋谷や池袋などよりも収入の大きな駅であった。しかし、両国駅より西側の総武本線の建設が行われると、このターミナルとしての繁栄は次第に凋落していく事になった。

ibid.

 今の両国駅からは想像のできない話だよなぁ。

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1929年完成当時の駅と、右上初代両国駅*3

 駅舎の三連アーチの窓についての記述は、Wikipediaには見られなかったけれど、これがこの駅舎のアイデンティティの一つとだれもが認めているんだと思う。

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両国駅西口公衆便所

 でなきゃ、こんなふうにはならんでしょ?

 

 

*1: この写真ぢゃぁ、よくよく見てもそこいらへんはわからんちん。すんません。

*2: 2010年9月29日閲覧。

*3: Wikimedia hatena bookmarkより拝借。すでにパブリックドメインになっている写真とのこと。