100年が30センチ、500年が3メートルとすれば、2000年は?
「温暖化で2000年後に自由の女神も水没か?研究結果」(AFPBB News)の記事を眺めながら、2000年という時間の長さの微妙を感じる。核廃棄物処理問題のようにいっそ10万年単位の歳月ならば、話が大雑把になっても、そりゃぁもう現生人類の尺寸法を超えているところだから仕方がないと諦めるしかないような気がする。しかし、2000年の如きは、過去であれば現生人類というばかりでなく書きつけられた歴史の射程にだって収まるんだから、ことがもう少し肌身にヒリヒリと感じられてもバチは当たらないような気がしないでもない。ところが、こちらのオツムの脆弱にもよるのだろうけれど、どうもすっきりしない。
連想クイズ的な想起に過ぎないけれど……。
「やは肌の熱き血潮にふれもみで さびしからずや道を説く君」と謳った与謝野晶子が通った堺女学校への道は、現在の地表から30センチ*1下の道。徳川家康が京で信長と会見した後、堺に滞在中の天正10年(1582)、明智光秀による本能寺の変を聞き、大急ぎで三河に逃れた
た ときは、地下2メートル。フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教のため、初めて堺の地を踏んだときは地下2メートル20センチ。一休(宗純)さんが街を闊歩したときは地下3メートルだった。堺の街は、中世以来今日までも地理上の位置は変わっていない。しかし、それぞれ時代の人が踏みしめ、生活していた地表面の高さは随分違っていたことが最近わかってきた。
堺の旧市街すなわち環壕都市遺跡内で、ビル建設の地下掘削工事や下水管の埋設工事の際に、掘り下げられた地表の断面を見ることができる。地表面から地下3.5メートルないし5メートルにかけて、赤茶けたあるいは黒く炭化した幾筋もの焦土層と黄色っぽい褐色の客土層が交互に縞模様になってえ出土しているのである。ときには、津波の跡と思われる砂層が混じっていたりする。場所によってはすでに攪乱されたところもあるが、大方のところでは、これらの堺焦土層と呼ばれる他都市ではなかなか見られないみごとな地層が実見できるのである。
中井正弘『南蛮船は入港しなかった―堺意外史』澪標、2001年、pp.225-6
要するに、大阪夏の陣であれ大空襲であれ、ちょこまかとした人為が地表の浮沈に影響しているというお話。
6、7千年まで広げると地球の気候変化の影響を被った瀬戸内海形成だって絡んで来始める。でも、そこまでいくと現生人類はさておき書かれた歴史の射程を外れちゃうかから、大雑把な想像上の地形図以上の細部は、僕らには手の届かない彼方にある。気になるのは、ここ500年かそこいらのことも、どうもありありとは思い浮かべられないということかなぁ。
一休さんが歩いた道が自分の足下3メートルだというようなことは、指摘されてなお想像しづらい話。与謝野晶子の30センチだってなかなか。もちろん、想像できないといっても漠然とイメージを思い浮かべるくらいのことは僕にでもできる。でも、そこいらじゅうが30センチなり300センチなり低くなっている状態全体がどういうものなのか、その他地域との陸地のつながり具合やら、結果生じる社会的なアレコレの違いやら、その他アレやらコレやらを総合的に想像するのは、少なくとも僕にとっては目眩を覚えるような脳の使い方になる。うー。たかだか100年とか500年とかでこの為体なんだからなぁ。
もちろん、これは堺の特殊事情が絡む話であって、ヨーロッパの石造りの都市にあっては事情が異なったりもするだろう。上に引いた本にだってそういう話は出て来る。とはいえ、これから先の2000年、こと自由の女神のメリケンの先行きとなると建国の歴史よりは長い話、一波乱二波乱あったておかしくないんぢゃないか。ヨーロッパのこととしても、ひょっとするとドレスデンなんかは30センチくらい戦後地表が高くなっていたりするかもしれないしなぁ。……と、そもそもこのエントリで僕は何を書くつもりだったんだっけか?
さて、そんなこんなで\(^o^)/、100年少々が30センチ、500年程度が3メートルとすれば、2000年はどうなるのか。九九を今でも人前で間違う算数落ちこぼれ転落人間にはいささかならず難しい計算が待ち構えているとしかいいようがない。何だか何もかもが茫々としているぞ\(^o^)/。
水没する自由の女神というと思い起こすのはこのカヴァー絵だけれど、世界の水没となると、
こちらかなぁ。
*1: 原文縦書き漢数字。以下同様。