本日の堺散歩/堺縣廳址(本願寺堺別院)

 場所の確認は、「Honganji Sakaibetsuin」(Google Maps)で。

本願寺堺別院、山門脇

山門前脇

 また明治天皇かぁ。

本願寺堺別院、山門前脇

上の碑の側面下部

 「堺縣廳址」、つまり「堺県庁跡」。ここはかつて堺県庁として使用されていた。

 この碑、昭和8年に建立されている。紡績所跡のが昭和15年。この時分、明治天皇関連の碑をあっちこっちに作るのが何かの政策になっていたのかしら。と書いてみると、なんだかどこかでそんな話を目にしたことがあるような気が、唐突にして来た\(^o^)/。

 寺そのものが作られたのは、当然のことながら近代以前。堺別院そのものについては、「本願寺堺別院について」(本願寺堺別院)など参照されたし。ここで気にしたいのは《1871年 堺御坊、堺県の県庁となる(〜1881年)》とあるところ。71年は廃藩置県の年だから、そんなもんか、と見過ごしてしまいそうなところだけれど、堺県そのもの、実は1868(明治元)年6月から旧幕府領・旗本領管轄のために設けられていた。

 教科書では、廃藩置県は明治4年と教える。しかし、明治維新直後、旧幕府領はただちに府県として明治政府の直轄地とする。天領(幕府領)だった堺と周辺がまず堺県となり、順次、周辺部や旧藩領を吸収し、明治9年には、大和(現・奈良県)一円も含めた大きな県になった。

中井正弘「堺意外史 Vol.2214年続いた堺県/痛手だった大阪府への編入」(ツールド堺)hatebu

 そうすると、「県庁」という名前がどうだったかはさておき、何らかのお役所は71年以前からあったはずで、そいつはどこにあったのかというのがちょいとわからない。堺奉行所跡に「旧堺市役所跡」みたいなのが併記されていた記憶があるから、そのへんだったのかな? しかし、行政区画としての「市」って廃藩置県以前に存在したのかしら? それとも「市」とあるのが間違いで、本当は「堺役所」とかそんな名前だったのだろうか?

 明治元年6月から、権判事として大阪府下の堺役所に常駐していた小河一敏おごうかずとしは、明治2年版籍奉還で正式に堺県の知県事になります。この版籍奉還というのは、旧藩主を知藩事に任命しなおしただけという面もありますが、旧徳川径から知行地を没収する役割もあり、堺では6月22日に大阪府の中から和泉国をさいて正式に「堺県」が誕生し、小河知県事が誕生したのです。

桧本ひのもと多加三たかぞう『堺・歴史の枝折しおり』(堺商工会議所)、p.3*2

 こういう記述を見ると、やはり「市」はなかったんだな。

 明治4年……(ざっくりと中略)……。それまで、堺奉行所跡に置かれていた県庁けんちょうも、西本願寺堺別院(きたのごぼう北の御坊さん)にうつりました。

別所やそじ、尼見清市『むかしの堺』(はとぶえ会、1976年)、pp.174-5*3

堺県の拡張と消滅

堺県の拡張と消滅*4

 「県庁」という言葉が当てられているけれど、「堺役所」とあった名称とどちらが正しいのだろう。両方の名前が用いられていたのかな。そこいらへんはわからんちんだけれど、まぁこの件はこのへんでほどほどにしておくか。明治元年に堺県は設けられ、堺役所だか堺県庁だかは、まず堺奉行所に置かれた。たぶんそういうことだろう。で、廃藩置県に伴って本願寺堺別院に堺県庁として移された、っと。

 ただし、明治元年の時点での「堺県」はどれくらいの地域を指したのか、堺史初心者にパッとわかる資料がネット上には見当たらない。たぶん、現在の堺市堺区*5程度のものなのだろうと漠然と想像しているんだけれど、どうなんだろう? その後、堺県はどんどん膨れ上がって、すでに引用文献中でも触れられていたように、現在の奈良県までをも含むようになる。

 右の図を見ればわかるけれど*6、なんだかずいぶん性急にデタラメに統合が進んだって感じだなぁ。言葉だけではわかりにくいなら、 「堺県」(Google Images Search)を見ると、現在の奈良県を含む堺県の版図の馬鹿げた広がりがよくよくわかる。だだっ広いのは何となくおバカな自尊心みたいなのをソソるところがあるけれど、山を越えないとイケないような広がりは実際のところひと括りにしたって面倒が増えるだけのような気がするんだが、当時は一体何を考えていてこうなっちゃったんだろう。あんまり真面目に考えてなかったんぢゃないかとついつい勘繰ってしまう。ホントのところ、どのくらいの広がりが適切なのか、江戸期までの行政経験ではわからなかったとか経験が引き継がれなかったとかいうことなんだろうか。うーん。

本願寺堺別院本堂

本願寺堺別院本堂

 この写真だとスケール感が全然伝わらないけれど、前に立つといくらか圧倒されるくらいの感じ。木造建築物としては堺最大、大阪府有数ということなのだそうな。大阪府だとあと四天王寺かどっかなのかなぁ、デカいの。

 本堂前の銅像は、右が親鸞、左が蓮如。「蓮如上人五百回遠忌法要記念」ということで、1994(平成6)年に建立されたもの。まだ新しく見えて周囲に溶け込んだ感じがしないのが残念。彫刻であれば、近代以前のものでも所謂「写実」に近い表現のものって結構あるけれど、こういう像を見るとやはり全然ことなる様式なんだなと感じないわけにはいかない。周囲に馴染んだ形と見えるようになるまでには、相当の歳月が必要なのかもなぁ。

本願寺堺別院本堂

本堂

 近づいて見上げたところを撮れば……と思ったのだけれど、やっぱりスケールは画面に収まってくれない…(;´Д`)ウウッ…。

本願寺堺別院本堂脇、与謝野晶子の歌碑

本堂脇にある与謝野晶子歌碑

《劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘ひとつ打つ》。『草の夢』(1922(大正11)年)hatebu*7巻頭の歌。「劫初より」というのは大袈裟だなぁと思うのだけれど、「われも黄金の釘ひとつ打つ」というのは何となくいいかな。でも、「黄金の釘」って何だ? 殿堂は和歌の歴史、釘は自身の歌ということか。

 歌碑は1968(昭和43)年の建立。「与謝野晶子の会」によるらしいけれど、どういう団体さんなのか未確認。素直にググってみたけれど、最初の数ページでは見つからなかった。与謝野晶子ほどの歌人になれば、いっぱい関連団体さんってありそうだしなぁ。

 

与謝野晶子大全
与謝野晶子大全
posted with amazlet at 19.06.11
古典教養文庫 (2014-03-24)
売り上げランキング: 131,562

 

SEMANA TRAGICA 悲劇週間 (文春文庫)
矢作 俊彦
文藝春秋
売り上げランキング: 517,931

 主人公は堀口大學だけれど、与謝野晶子もご登場。

 

*1: リンク先は本願寺堺別オフィシャルサイト。2010年1月に作られたものなのだそうな。

*2: 実はこのページにも「堺奉行所跡/旧堺市役所跡」と併記された碑の写真が掲載されている。

*3: 「きたのごぼう」へのルビは引用者。

*4: 別所やそじ、尼見清市『むかしの堺』(あかがね文庫、1994年)。はとぶえ会版p.175にも同じ図が出ている。写真写りのいい方を、ということであかがね文庫版から採った。なお図の名称は引用者が勝手につけたもの。

*5:cf. google:堺市堺区

*6:注6 小さくて字が読みにくいという場合は、 neanderthal yabuki on Twitter: "別所やそじ、尼見清市『むかしの堺』(あかがね文庫)、p.119 図の下の分岐は奈良県が分離したことを示している(んだと思う)。 http://t.co/h9ZI2eGn49"でも参照のこと。図にポインタを当て右クリックして現れるコンテキストメニューから、「新しいタブで画像を開く」をクリックすれば、別タブに画像の全体が表示される。こちらはちょいとデカすぎたかも\(^o^)/。

*7: リンク先は国立国会図書館デジタルコレクション。