本日の文章讀本/仮想敵としての「話すように書け」

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2010年6月、都バス車内から

 手の届かない物象、みたいなことを考える。

 

仮想敵としての「話すように書け」

 『日本語作文術』を少しずつ。

 みなさんのなかには多分こんな経験をおもちの方がいるにちがいない。頭のなかではきちんとまとまっていたはずの考えがいざ書く段になったら、取り留めもないものになってしまった。あるいは、うまく話せた内容を文章にしようとしたら、とたんに言葉に詰まってしまった。あら、不思議である。しかし、実は不思議でもなんでもない。話し言葉と書き言葉は別なのだから(とりわけ日本語はその隔たりが著しい)。なまじ同じ日本語だと思うから無用な混乱が生じる。話し言葉から見れば書き言葉は「外国語」である。書き言葉には書き言葉の「文法」がある。話すようには書けないのである。

 個性や独創性を謳う「話すように書け」、「思ったように書け」――思えば、この「有名な」スローガンこそが「躓きの石」であった。スローガンを捨て去ることから、「書くこと」の展望はひらけてくるだろう。

pp.5-6

 ここでは《「有名な」スローガン》とカギ括弧付で記されているから、たぶんそんなことは著者さん先刻ご承知って感じなんだろうけれど……。

 この「話すように書け」って指導、スローガン、今、一体どこで行われているのだろう?

 本多勝一の『日本語の作文技術』はもちろん、それ以前の文章術本にあってさえ「話すように書け」って考え方が困りものだと書かれていたりする。谷崎の『文章讀本』にも出ていなかったっけか? 巷にあふれるところの文章術本では、この「スローガン」を叩いておくことがほとんど義務か、さもなければ儀礼か挨拶か何かになってるみたい。でも、その年がら年中叩かれっぱなしの「話すように書け」という指導、一体どこに存在し続けているのだろう? 大昔の「作文」指導ではたしかにそいつがスローガンとして採用されていたことはあるみたいなんだけれど、今どき、ストレートに「話すように書け」なんて書いている本、学校での指導、ないんぢゃないかなぁ。少なくとも個人的にはそういう指導を受けたこともなければ教え子から受けた経験を聞いたこともない。

 ごく例外的にブログの文章術みたいなことを扱っているウェブ上で「話す通り」ではなくて「話すみたいに書け」と書かれてたのは目にしたことがある。話す通りのあるがままでは、さすがにくだけたブログのエントリでも内輪ウケを超えて読まれる文章にはならない。でも、フランクで親しみのある感じを醸すには、話しているみたいに見える書き方が必要だ、というわけだ。これはこれでわかる話。でも、そいつぁ所謂「話すように書け」とは話の筋が違う。

 ひょっとして、要するに実は「話すように書け」という指導、文章術本にとっての仮想敵としてしか21世紀を(20世紀末も)生き延びていないのではないかしら? かろうじて仮想敵としてのみ「有名な」スローガンであり得ているとか。ならばむしろ、話すように書け! とか打ち出しちゃうのが、他の文章術本に対する新しい文章術本の差別化戦略になるのかも。まぁ、文章術本として優れたものになるかどうかは別だけれど\(^O^)/。

 とか、またしてもどうでもいいことを考え込んだり。

 

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