続・中国の贋作文化に就いて

 権利侵害への抗議に応じてすでに元動画は削除済みとのこと。

 ネタそのものとしてはすでに新味は失せてしまったものだけれど、昨晩、「中国の贋作文化に就て」hatebuの復活作業をしながら、そういえば最近も……と思い出したので、まぁ。多少の詳細は、「中国共産党が『マリオ』そっくり動画 司法の実績PR?」(朝日新聞デジタル)hatebuを当たられたし。

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そして知的財産権の案件を……

 共産党の公の仕事として、少なくとも部分的には知的財産権をめぐる話をも扱いつつ、それでもなお、この映像自体が知的財産権の侵害に当たるオソレがありゃしないかという疑いの心が働かなかったのかもしれないというところに中華文明四千年の伝統の顕現がぁ……とか書くとおちょくっているみたいに思うヒトが出て来そうだから止すけれど、おおよそそういうあれこれに近い事情があると見るほうが合理的なんぢゃないか。

 「中国の贋作文化に就て」hatebuに登場していた、真似ていることはわかるけれどそっくりとは云い難い絵画の模写にせよ職人技を見せるための非常に高度な模倣もそうだけれど、比較的我々にも身近かと思える臨書だって、そうしたことを感じさせるアレコレの一つかもしれない。単なる書道のお稽古を超えて、それ自体が作品として評価されさえするのは、真筆が存在しないと云われる王羲之ばかりではない。模倣が模倣を超えて別作品へと育ってゆくありようは、オリジナリティの価値を強調し無から有を生じせしめるかのような「クリエーション」を自称する近代的なアートとは別乾坤にある。そういう過去への自然な敬意と模倣を踏まえた未来の産出とで出来上がっている文化伝統の核にあるものが模倣に価値をおく態度なのだ(とか云ってみるテスト\(^o^)/)。だからして、知的財産権をめぐる話であっても、模倣を介して語るほうが自然だし優れているのだ、くらいのことを考えていそうな気がする。知らんけど。

 このへん、たぶん近代的な著作権の考え方の登場以前にはむしろ中国的な模倣のあり方のほうが普遍的だったんぢゃないかという気もする。でも、今回はそこいらへんには面倒臭いので踏み込まない。ただ、模倣を云々しているからといって、中国をバカにしているわけぢゃないというあたりはご理解いただけるといいかなぁ。

 

 模倣、コピーといえば、直近、以下のような話もある。

 詳細は「人間の分身『AI司会者』が中国で誕生 ── 忘れるな。設計、開発したのは人間だ」(Ledge.ai)hatebuを参照されたし。

AI司会者を開発したのは、アメリカ・カリフォルニア州パサデナを拠点とし、分散型の個人用AI、パーソナルAIアバター(PAI) を開発するAI専門会社「ObEN」だ。2014年に設立された同社は、ソフトバンクベンチャーズ・コリアやテンセント、HTC VIVE Xの投資先企業でもある。

PAIは、

「長期間の旅行中に自分自身の仮想コピーを『残していく』ことによって、家族と繋がっていたい」

という考えから生み出された。

「人間の分身『AI司会者』が中国で誕生 ── 忘れるな。設計、開発したのは人間だ」(Ledge.ai)hatebu

 ヒトが生み出したなにがしかのブツではなくてヒトそのもののコピー、模倣にチャレンジしようというわけか。もちろん、本邦でも爺ぃ世代ならば藤子不二雄パーマン』に登場するコピーロボットのことを思い浮かべるかもしれない。人格も見かけもまるまるコピーしてしまうロボットのことだ。しかし、あれはどちらかといえば、コピーそのものへの欲望というよりも、厭な現実から逃避するための手段、替え玉としてロボットを利用していたのが作中でのありさまだ。そのまま開発されるべき技術の理想的な姿としては描かれていないものだった。しかし、ここでははっきりとコピーが目的として語られているのである。現実的な技術開発とフィクションとというにとどまらない違いがあるというべきだろう。

 リンク先の記事では、この中国の試み紹介以降は本邦の事例を扱っているのだが、朗読者としてのAI活用みたいな話になってしまって「コピー」「模倣」「真似」といった語は登場しない。そこいらへん、彼我の違いがあるのかどうか。あるとすれば、オリジナリティの源泉であるかもしれない、個人の人格、個性、パーソナリティそのものをもコピーしてしまうことで、オリジナルに至上の価値を認めているかのような西欧近代を哄笑する中華文明四千年の……(ー_ー;)

 

王羲之と顔真卿: 二大書聖のかがやき (別冊太陽 日本のこころ 270)

王羲之と顔真卿: 二大書聖のかがやき (別冊太陽 日本のこころ 270)