本日の備忘録/秋刀魚の味

「本日の備忘録/気候変動と歌の終わり(仮)」を書いた後もうすらぼんやりサンマのことを考えるともなく考えているうちに思い出したことを少々。

「何だ、何だ」

 好奇の顔が四方からのぞき込む。

「まあ、やってご覧、あたしの寝酒のさかなさ」

 亭主は客に友達のような口をきく。

にしちゃ味が濃いし――」

 ひとつつまんだのがいう。

あじかしらん」

 すると、畳敷の方の柱の根に横坐りにして見ていた内儀かみさん――の母親――が、は は は は と太りじしゆすって「みんなおとッつあんに一ぱい喰った」と笑った。

 それは塩さんまを使った押鮨で、おからを使って程よく塩と脂を抜いて、押鮨にしたのであった。

「おとっさんずるいぜ、ひとりでこっそりこんなうまいものをこしらえて食うなんて――」

「へえ、さんまも、こうして食うとまるで違うね」

 客たちのこんな話が一しきりがやがや渦まく。

「なにしろあたしたちは、銭のかかる贅沢はできないからね」

「おとっさん、なぜこれを、店に出さないんだ」

「冗談いっちゃ、いけない、これを出した日にゃ、他の鮨が蹴押されて売れなくなっちまわ。第一、さんまじゃ、いくらも値段がとれないからね」

「おとッつあん、なかなか商売を知っている」

 その他、鮨の材料を採ったあとのかつお中落なかおちだの、あわびはらわただの、たいの白子だのをたくみに調理したものが、ときどき常連にだけ突出された。はそれを見て「飽きあきする、あんなまずいもの」と顔をしわめた。だが、それらは常連から呉れといってもなかなか出さないで、思わぬときにひょっこり出す。亭主はこのことにかけてだけでむら気なのを知っているので決してねだらない。

岡本かの子「鮨」(青空文庫)*2

 先日のエントリで《サンマが身近な、というか卑近な喰い物》と書いたあたり、そういえば「鮨」にも出てたよなぁというわけで、上の引用。ここでも「秋刀魚の歌」同様、サンマは安価な食材として登場している。常連客を欺くほどのものとして扱われているのだから、安価な食材の、ほとんど代表とみなされているといっていいくらいなんぢゃないか。

 ボンビー生活を極めつつある僕にしたところで、東京にいた時分、つい4、5年前までは鶯谷信濃路」なんかで「新さんまの刺身」なるものを喰っていたわけで、「新さんま」なんて云っているけれど、こいつ、実は冷凍モノなんぢゃないかとの嫌疑は捨てきれないものの、そこいらへんの如何に拘らず、信濃路で出される以上は罷り間違っても高級魚なんかではないわけで、安い喰い物の代表として扱われるのも当然だと個人的にも確信しちゃうもんね。

 ちなみに、『鮨』はセンター試験の試行テストで出題された過去あり。他にも私大入試で見かけた覚えあり。試験向きの作品かどうかはよくわかんないけれど、なかなかよく出来た作品なんぢゃないかしら。会話もうまいし、ちょっとした表現なんかでもなかなかこうは書けないだろうなぁってなところが随所にあってチャーミング。

 ともよが出会う湊という常連客がいかにして鮨好きになったかがメインになるお話。そこいらへん、素人読者のいい加減な妄想として、湊とその母の取り合わせに太郎/かの子母子を重ねて思い浮かべないわけにはいかなくなったりする。少なくとも「ひ ひ ひ ひ ひ」と笑う子ども時代の湊の姿、どうしたってあの岡本太郎の顔をした子どもとしてしか思い浮かべられない困りモノなので、みなさんもぜひお読みになるがいいですね。 

 かくて、子供は、烏賊いかというものを生れて始めて喰べた。象牙ぞうげのような滑らかさがあって、生餅より、よっぽど歯切れがよかった。子供は烏賊鮨を喰べていたその冒険のさなか、詰めていた息のようなものを、はっ、として顔の力みを解いた。うまかったことは、笑い顔でしか現わさなかった。

 母親は、こんどは、飯の上に、白い透きとおる切片をつけて出した。子供は、それを取って口へ持って行くときに、脅かされるにおいにかすめられたが、鼻を詰らせて、思い切って口の中へ入れた。

 白く透き通る切片は、咀嚼そしゃくのために、上品なうま味にきくずされ、程よい滋味の圧感に混って、子供の細い咽喉へ通って行った。

「今のは、たしかに、ほんとうの魚に違いない。自分は、魚が喰べられたのだ――」

 そう気づくと、子供は、はじめて、生きているものを噛み殺したような征服と新鮮を感じ、あたりを広く見廻したい歓びを感じた。むずむずする両方の脇腹を、同じような歓びで、じっとしていられない手の指で掴み掻いた。

「ひ ひ ひ ひ ひ」

 無暗むやみ疳高かんだかに子供は笑った。母親は、勝利は自分のものだと見てとると、指についた飯粒を、ひとつひとつ払い落したりしてから、わざと落ちついて蠅帳のなかを子供に見せぬよう覗いて云った。

「さあ、こんどは、何にしようかね……はてね……まだあるかしらん……」

 子供は焦立いらだって絶叫する。

「すし! すし」

ibid.

 ね、なにかしらTARO感あるでしょ?

 と、それはさておき。

 「秋刀魚の歌」とは違って、本作の場合はお話を読みさえすれば、サンマが庶民的な価格の魚であることなどすぐわかる。註釈が立ち入る隙はなく、「秋刀魚の歌」のようにサンマの価格高騰によって読みの致命傷を負うこともない。あるいは極めて軽傷で済むだろう。とはいえ、「さんま」「サンマ」「秋刀魚」の文字列を目にしただけで、ピンと来る感じは、もうこれから先だれもが共有できるものではなくなってしまうんだろうな。うーん。まだ高値ででも入手可能なうちはいい。やがては目にすることからして難しくなってゆくかもしれないんぢゃないか。

 サンマと日本近代文学の関わりは、夏目漱石吾輩は猫である」(『ホトトギス』連載開始1905年)に始まるといわれている*3。見かけることもなくなり、幻の魚として遇されるようになってゆくとすれば、100年を超える親密な関係もそろそろ御仕舞ということになっちゃうんだろうか。

 

 こういうことを書きながら、だんだん気になってくるのが文学ではなくてリアルな世界のお話。仮に気候変動によってサンマの漁獲高が落ち込み続けているとして、そういう事態が生じるまでに環境が激変しているとすれば、もう私たちの身近な環境も無事ではいないはずだと考えることだってできるかもしれない。現に堺の実家界隈では見かけるセミの様子が昔*4とはずいぶん変わってしまった。かつてであれば、夏、まず鳴き始めるのはニイニイゼミであり、7月末から8月頭にかけてアブラゼミが鳴き始め、やがてこれにクマゼミの鳴き声が加わるという順序で変化したものだった。ところが現在ではニイニイゼミはまったく姿を見せない。声も聞かなければ、幼虫の抜け殻も転がっていない。7月の半ばにいきなりアブラゼミクマゼミが鳴き始める。トンボもシオカラヤンマなどこちらに戻ってからは一度も見かけない。小鳥もかつては見かけなかった種類のものが増えて、一方スズメは見かけなくなった。すべて気候変動によってもたらされた変化なのかどうかはわからない。中にはヒトによる駆除の類による変化もあるだろう。とはいえ、という素人の憶測はなかなかおさまらない。

 たとえば、「飼い主が飼育を放棄した外来種が地域の在来種を駆逐し生態系を壊してしまう。だから、外来種を駆除してしまおう」というような活動がある。ああいう活動は今後ともに有益なものであり得るのかどうか。在来種を培ってきた環境が根こそぎ変化しようとしているならば、旧来の環境の不変を前提とした自然保護はいつまで続くものなのだろうか。いつまで健全な環境保全であり得るのだろうか。外来種を駆逐し尽くしたとして、気候変動の結果として在来種が暮らせる環境が消滅していたとしたら……。そういう事態だって想定されなければならないところに来ていやしないか。みたいなことを考えたりする。どうなんですかねぇ?

 外来種であっても、変化しつつある環境に在来種以上の適応が出来て、しかも生態系の一部を構成しつつあるような場合、とくに現在のような環境の大きな変化の只中にあっては、駆除の対象から外すことが考えられたっていいんぢゃないか? ダメかなぁ。うーん。

 ここで語られるヌートリアの扱い方みたいなのって、気候変動の過渡期にあってはとくに考えられていいことのように思うのだけれど、どうなんだろうか。

 小林教授にしたところで、何もヌートリアを放置せよ、と考えていらっしゃるわけではない。

 同じく特定外来生物に指定され、561集落で確認されたアライグマと比較するとまだ少ないが、小林教授は「目撃情報が増えているのであれば、県全域*5に増殖する可能性も十分にある。被害が拡大する前に捕獲し、分布域を押し戻す必要がある」と話す。

 被害は農作物だけにとどまらない。ヌートリアは水辺にトンネルを掘って巣を作るため、ため池や河川の堤防、田んぼの水路を決壊させる恐れも指摘されている。岡山市では昨夏の西日本豪雨が引き金となり、ヌートリアの巣穴を原因とするため池の部分崩落が起きたという。小林教授は「管理が行き届かなくなった田んぼやため池は、ヌートリアにとって格好の隠れ場所になるので注意してほしい」と話している。

「堤防も決壊、大型ネズミ・ヌートリアの脅威 なぜ各地で繁殖」(産経ニュース、2019年7月25日)

 「分布域を押し戻す必要」も時には考えられなければならないという。駆逐でも放置でもなく、コントロール

 こういう感じ、たぶんこれからの生態系との付き合い方の面倒を示唆するものなのかも。あるべき生態系みたいなものを、気候変動のゆくえを想定しながら、作り出し調整管理せざるを得ないというような。既存の生態系の温存が不可能になるとすれば、そうした環境保護/創造/管理のあり方は不可避かとも思えてくる。そこいらへん、実際のところどうなんだろう?

 しかし、何にしたって面倒臭そうだわね\(^o^)/

 

おまけ

 ことのついでに、仕事用メモ。

 「地球温暖化」といってもひたすら一直線に暖かくなり続けるわけではない。「気候変動」、変動期というのは何事によらずまずは不安定なものである。天候のさまざまな不安定はありながらも、気候全体の温暖化はじみりじみりと進むというイメージが、たぶん重要。

 いやまぁしかしそれにしても、一日で30℃も気温が下がったんぢゃぁ、対処のしようもないわ\(^o^)/

 気候と天候は別物ですもん。お天気はいろいろぐちゃぐちゃ変化するけれど、気候はじみりじみりと。

 日本語版、出ませんかね、これ。

 

立ち読み課題図書、その他

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 速水敏彦といえば、『他者を見下す若者たち』(講談社現代新書)の著者さん。『他者を……』は、当時流行りの若者批判を思わせるタイトルのせいもあってか、発刊当初ずいぶん批判されたけれど、「仮想有能感」なんかについての話は再評価されていいんぢゃないかと思う*6SNSで生じる悶着のある程度の部分はこいつで捉え直せたりするんぢゃないかしらね。そうも行きませんかね。うーん。

 

 それにしてもなぁ、新書あたりまでならなんとかならんでもないのだけれど、単行本の読みたいヤツとなるとたいがいが大和川を超えて北上しないと立ち読みできんのは困りものぢゃ。ぶー。

 

 

*1: 映画本篇でもさんまは全然出て来ないんだけれど^^;。でも、「秋刀魚」の持つコノテーションみたいなのが共有されていなければ、タイトルにこの言葉が使われることなどなかったんぢゃないかな。そうでもないですかね。う~ん。

*2: 本文テキストは青空文庫からコピペして使用した。ただし、HTMLは大幅に改変してある。

*3:ホントに? cf. 旧字旧仮名版夏目漱石「吾輩ハ猫デアル」(青空文庫)、新字新仮名版夏目漱石「吾輩は猫である」(青空文庫)。ページを開いて「三馬」で検索すると確認できる。「三馬」なんて綴はちょいと他では見かけないから、手にとったテキストに註釈でもついていないと、うっかり見逃していたというヒトだっていそうだけれど、どうかしら。/一箇所きりだけだけれど、「吾輩」が苦沙弥先生宅に飼われる決定的きっかけになると同時に先生宅の雰囲気を醸す素材として結構活きているといっていいんぢゃないかしら。

*4: 大学進学で上京した時分、つまりざっと●十年前。

*5:引用者註:奈良県

*6: って、不評はネットの一部だけで、まっとうなところでは評価されているのかもしれないけれど。