年末恒例、蔵書の整理中。ついついボソボソ、あれこれ読み返してしまって整理にならない。そんな中から一つ。
そうそう、こんなヘンな書き出しもあります。
そして私は質屋に行こうと思いたちました。 (宇野浩二『蔵の中』)
何が「そして」だ、と思わせたところが、当時は新鮮だったようですね。
『蔵の中』ってそんな書き出しだったっけか、というあたり、実は「?」なのだけれど*1、それはさておき、書き出しで「そして」となると、ほとんど条件反射的に思い起こされるのが谷川俊太郎「芝生」である。
そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
書き出しだけでもスゴいよなぁ。まいっちゃうなぁ。
だからどうだというような話ではまったくもってないのだけれど、同じ「そして」で始まっても、散文と韻文、出かけてゆく先はずいぶん違うものなのだな。
昔々あるところに日本近代文学さんと現代詩さんが暮らしていました。
ある日、文学さんは質屋へ金を借りに、詩さんは芝生の原っぱへなんとなく、それぞれ出かけてしまいました。
「金を借りるのはもちろんお金がなくなっちゃったからだよ」と近代文学さん。でも現代詩さんは「原っぱにやって来たのは、細胞の記憶に従ったまでさ」なんて云っています。あらま、どうしたことでしょう。
というお話は、《散文は歩行であり、韻文は舞踏である》(ヴァレリーだったっけ?)といったあたりに充分匹敵する喩というか寓話となるのではないか。とかなんとかおバカなことを思いついてしまった。これでは谷川ファンにボコられるのがオチだな。
で、こういうのは散文でも韻文でもなくて、駄文というのですね\(^o^)/。
「芝生」収録。版元が岩波書店に変わっているけれど、Kindle版も出ているのですね。
*1: ざっと見ただけなのだけれど……。「蔵の中」(国立国会図書館デジタルコレクション)を見る限り、引用されたフレーズで始まる段落は存在するが、作品本体の書き出しがこれだとは云えないんぢゃないかなぁ。/青空文庫のほうでは『蔵の中』、まだ入力作業中だった。残念。デジコレはそれはそれは有り難いものだけれど、読みにくいのが難点だわね。こちらのPCのディスプレイがウンとデカければいくらかマシになりはするのだろうけれど。
*2: 『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社)冒頭、全7行中の冒頭3行。